黒田家は中津から新たな土地・福岡へ

長政、福岡の大大名へ

 そのとき、左手は何をしていたのだ?

兵を引き揚げ、中津へ戻った如水。長政も論功行賞を受けて中津城へ戻って来ました。
このたびの関ヶ原の戦いでは、長政の調略が大いに功を奏し、その働きは家康にとって大いに満足するものでした。それゆえ家康は長政に対し、黒田家は今後何があろうと子孫代々罪を免除されることを約束し、筑前国名島(なじま・福岡県福岡市)に52万3,000石を与えます。

大手柄を立てて得意満面の長政と対面した如水は、家康が長政の手を取って何度も礼を言ったとの説明に対し、
「家康が握った手は、お前の左手か右手か?」
と問い質しました。
「右手でした」
そう答えた長政に対し、如水は朴訥に「そのとき左手は何をしていたのだ?」と返します。

そのときに家康を斬れば天下を取れたものを…という意味を込めた言葉だとの話ですが、さすがにこの逸話は後世の創作だと言われています。

黒田長政
▲黒田長政像(福岡市博物館蔵)

慶長5年(1600年)12月。如水は大坂へ行き、家康と面会しました。家康は如水に対しても恩賞や領地の加増を申し出ましたが、なぜか如水はこれを辞退してしまいます。年老いた隠居の身ゆえに、以後はひっそり大人しく暮らしたいと述べたのです。

これは関ヶ原の戦いの頃に藤堂高虎を通じて家康に対し領地切り取り次第を申し入れていたことからすると、なんとも辻褄が合いません。
とはいえ、長期化して混沌となるであろうと予測した関ヶ原の戦いがあっさり一日で決着し、その勝因に長政の働きが大きく関わっていたことから、領地拡大ひいては天下取りの夢はその時点で捨てていたのかもしれませんね。もう自分の時代ではなく、次の世代の時代なのだと…

 新たな地、福岡へ

筑前国を拝領した長政は早速筑前入りを果たしますが、まずは博多ではなく飯塚に仮逗留を行いました。
もともと博多の町は西軍の支配下だったため、町の人からすればいわば敵も同然だったからです。入国ではなく筑前御討入(ちくぜんおうちいり)とまで言われましたが、博多の町割りに如水が関与していた経緯や、茶人仲間であり大商人の神屋宗湛(かみやそうたん)と如水が懇意だったこともあって、なんとか無事に博多入りを済ますことができました。

小早川秀秋から譲り受けた名島城(なじまじょう・福岡県福岡市東区)は手狭だったため、如水と長政は新たな城を博多のそばに建設することにします。

名島城跡
▲名島城跡(福岡県福岡市東区名島1-26)

ではどこに築城しようかと、箱崎、春吉、荒戸山、福崎の4か所を候補地として調べた長政。 箱崎は砂地で地盤が脆いことと、ふたつの川があり水攻めされるおそれがありました。低地の春吉も、弱地盤の荒戸山もよろしくないとのことで、結局博多と那珂川を挟んだ位置にある福崎に決定。築城を開始します。
さらに福崎は福の字を冠しており、黒田氏中興の地である備前国福岡に通じるものがあるとして、この一帯を「福岡」と改称することにしました。
これにより長政は初代福岡藩主となるわけです。

そして官兵衛は波乱の生涯の幕をそっと閉じる…

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画像引用:wikipedia/ぱちょぴ様(http://ja.wikipedia.org/wiki/
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