太宰府、福岡、伏見で過ごした如水の晩年

官兵衛の最期

 晩年の如水

福岡城築城中、如水は太宰府に庵を造って住まいました。場所は菅原道真(すがわらのみちざね)を祀る太宰府天満宮(福岡県太宰府市)の境内。
1年半ばかりの期間ではありましたが、如水がこの地を仮住まいの場として選んだ理由は連歌だと言われています。
茶道と並び、文化人の嗜みであった連歌。菅原道真が和歌の神だったことから、社家らを招いて連歌会を開いたり、太宰府天満宮に連歌を奉納するなど、連歌興隆に尽力しました。

また荒廃していた境内を造営し、神社そのものの復興にも力を入れました。現在でも如水が茶の湯で使用した井戸が境内に残っています。

如水の井戸
▲如水の井戸(福岡県太宰府市宰府4-7-1)

ほどなく建築中の福岡城内に完成した三の丸(御鷹屋敷)に移った如水。その隠居生活は華美なものとは無縁で、徹底して質実なものでした。家臣は十人ほど、贅沢はせず、自邸を城下の町民の子供に開放して、好き勝手遊ばせたと言います。
子供が泥まみれの足で廊下を走りまわり、ふざけて襖や障子を破ったりしても咎めることは一切なかったのだとか。
また屋敷に籠ることなく、城下に出掛けては町の子供に菓子を与えて一緒に散歩をしたとも言います。

その後福岡から京へ上りそして福岡へ戻る生活を繰り返し、慶長7年(1602年)には再度伏見城で家康と対面しています。
翌年、家康は征夷大将軍となり、徳川家による天下支配が確固となりました。これより250年以上に渡り、江戸幕府による治世が続くことになります。

 如水の最期

このころから如水の健康状態に異変が起こるようになります。心配した光や家臣たちは如水を湯治に連れ出しました。行先はかつて有岡城幽閉の直後に逗留した有馬温泉です。

湯治の甲斐あって一旦は復調し伏見の藩邸に移ったものの、年が改まり慶長9年(1604年)になると再び体調は悪化。
家臣たちが伏見まで見舞にやって来ますが、如水は彼らに冷たく当たるようになってしまいました。まるで難癖をつけるかのように家臣に非難の言葉をぶつけ出したのです。
「人が変わってしまわれた」と如水の激変を嘆く家臣たちを見かねた長政。酷い言葉を掛けないで欲しいと懇願したところ、如水は「あれはわざとそうしているのだ」と答えます。
如水は自身の死後に家臣が後を追って殉死することを危惧したのでした。優秀な家臣には己の死後も長政を支えてもらわねばならない、それゆえ家臣に辛く当たることで殉死しようとする気持ちを起こさせないようにしたというわけです。

洛中洛外図屏風
▲伏見城(洛中洛外図屏風・林原美術館蔵)

死期を悟った如水は、枕元に栗山善助を呼びました。如水は善助に兜を授けます。その兜は銀白檀塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)、通称・如水の赤合子(あかごうす)といい、もともと櫛橋家から贈られたものでした。如水は合戦の際にこれを被り、いわば如水のシンボル的存在だったものです。

これは本来、子である長政に遺すべきものでしょう。しかし如水はあえて善助に託すことで、善助に長政を大いに助けるよう、また長政は善助の進言をしっかり受け止めるよう促したのでした。

銀白檀塗合子形兜
▲銀白檀塗合子形兜(もりおか歴史文化館蔵)

3月20日。辞世の句「おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて」を遺し、如水は息を引き取りました。享年59。
如水は死の前に家臣の殉死を禁じること、葬儀は簡素にすること、仏道にかまけ過ぎないことを命じています。
さらにキリシタンらしく遺体を博多の神父の所へ運ぶこと、神父を冷遇しないこと、イエズス会に約320石を寄付し、一部を博多での教会建設資金とすることを言い遺しました。

遺言どおり、如水の亡骸は宣教師たちによって博多のキリシタン墓地の隣に埋葬され、後日その礼に長政は500石を贈呈しています。その後、仏式の葬儀も執り行われました。

その後、妻の光は出家して院号を照福院(しょうふくいん)とし、寛永4年(1627年)福岡城にて死去するまで、長政と福岡の町を見届けます。
長政もまた如水の供養のため、京の大徳寺に塔頭・龍光院(りょうこういん・京都市北区)を建立。福岡では産業奨励に力を入れ、博多人形や博多織、高取焼は現在でも福岡を代表する伝統工芸になっています。

参謀!黒田官兵衛の決断・了

画像引用:ホテルエース盛岡様(http://youtu.be/1y76ATkUdxY)