別所長治の裏切りでピンチに陥った上月城はどうなる?

別所長治、官兵衛を裏切る

 別所長治の離反

宇喜多勢に上月城を奪われた秀吉は、再度城を奪還すべく兵を出しました。城は落城、城主の上月景貞は負傷しながらも城を脱出し、自害します。
一方、景貞の妻はふたりの息子とともに、妹の夫である官兵衛を訪ねて庇護を求めました。その境遇に同情した官兵衛は秀吉の許しを得て3人の面倒を看ることに。のちに出家した彼女は妙寿尼(みょうじゅに)と名乗りました。

これにて再び山中鹿介幸盛が城主に返り咲いたのですが、穏やかな時はそう長くは続きません…
あらぬところから反旗が翻ったのです。

天正6年(1578年)2月、秀吉は今後の中国地方平定の道筋を確固とすべく、加古川城(かこがわじょう)にて評定を開きました。評定には播磨の諸城主が揃います。
三木城の城主・別所長治は出席せず、長治の名代として叔父の別所吉親(べっしょよしちか)が出席したのですが、これが問題。
もともと毛利ひいきな上に、農民上がりの秀吉に対して蔑んだ態度をとり、別所家の家系物語を延々と開陳したため、秀吉の不興を買ってしまいます。

称名寺(加古川城跡)
▲称名寺(加古川城跡)(兵庫県加古川市加古川町本町313)

おまけに三木城に戻った吉親は長治に対し、けちょんけちょんに秀吉を腐した挙句、毛利輝元に付くよう説得したのでした。

それを受けて長治が信長から輝元側へ翻意すると、カードがどんどん裏返るように、別所氏の影響を受けていた東播磨の諸氏が同調。信長と対峙していた石山本願寺(浄土真宗)の門徒を多く抱えていた城主もおり、播磨平定どころか、状況は一気にきな臭くなってしまったのです。

 官兵衛、阿閇城の戦いに臨む

おまけに官兵衛の身内からも離反者が出てしまいます。妻・光の兄である櫛橋左京進(くしはしさきょうのしん)です。
この相次ぐ離反のしらせに信長は激昂。別所長治の三木城陥落を秀吉に命じました。

長治は籠城で抗戦の構えを見せます。他の東播磨の諸城主も各城に立て籠もりましたが、加古川の海岸のほど近くにあった阿閇城(あえじょう)城主・加古政顕(かこまさあき)は、兵を率いて三木城で長治と一緒に立て籠もりました。
阿閇城は無人になってしまったわけですから、秀吉はあっさりここを占拠。海上監視基地として利用することにしますが、当然輝元側はそんなことを許すはずがありません。


▲姫路城(ピンク色ピン)と阿閇城(青色ピン)の位置

天正6年(1578年)4月、輝元は8,000人を超える兵を海上から送りこんできました。
秀吉はすぐに官兵衛を阿閇城に派遣し、城の防衛を命じます。しかし、大軍に立ち向かう官兵衛の兵はわずか500。勝算はあるのでしょうか…

決断!

官兵衛の作戦とは?

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正解 敵を引きつけて一斉射撃

阿閇城が小さな城であり、要害堅固ではないことから、敵は簡単に攻め落せると高を括ってくるだろう…
そう官兵衛は予想したのです。
案の定、海から上陸した毛利軍は、攻城櫓(こうじょうやぐら)も鉄砲よけの盾もなく、ただ数に任せて攻め込んできました。
官兵衛は敵をギリギリまで引き寄せます。城の垣を敵軍が乗り越えようとしたその時、号令の太鼓とともに鉄砲の一斉射撃と雨のような弓矢、そして落石で毛利軍を一気に攻め立てました。

パニックになった毛利軍に更なる追撃とばかりに、今度は城門から槍部隊が突進してなぎ倒していきます。
勝負あり。毛利軍は退散し、官兵衛の圧勝で阿閇城の戦いは幕を引きました。

戦果を聞いた信長は喜んで秀吉に馬を与え、秀吉はその馬を官兵衛に与えます。官兵衛はこの戦は果敢に戦った母里太兵衛のおかげで勝利を勝ち取れたのだと、その馬を太兵衛に与えたのでした。

 上月城の落城

阿閇城の戦いで勝利を治めたのも束の間、山中鹿介幸盛が城主に返り咲いていた上月城が、またもピンチに陥ります。
毛利元就の次男・吉川元春(きっかわもとはる)と、三男・小早川隆景(こばやかわたかかげ)が率いるその数なんと5万もの大軍が攻め寄せて来たのです。

吉川元春
▲吉川元春

対する上月城の軍勢はわずか3,000。圧倒的勢力の毛利軍ですが、力に任せて攻め入るのではなく、城の周囲に深い空堀や塹壕を掘り、柵を巡らせて防御線を強固なものにし、兵糧攻めの持久戦で挑んできました。

かたや籠城戦を続ける三木城の陥落を狙う秀吉も、このまま孤立無援状態の上月城を放置しておくわけにいかず、摂津の荒木村重と合流し、阿閇城の戦いを終えて駆けつけた官兵衛とともに上月城へと向かいました。
されど、大軍相手に勝敗はつかず、ずるずると時間だけが過ぎていきます。

2か月後、秀吉はさらなる援軍を信長に求めましたが、信長はそれを却下。三木城攻略を最優先とし、上月城は捨てよと命じられてしまいました。
命令に逆らうわけにはいかず、秀吉は後ろ髪引かれる思いで上月城から撤退し、姫路の書写山(しょしゃざん)に陣を移します。

書写山
▲書写山(兵庫県姫路市書写)

7月。城兵の助命を条件にして、上月城は開城し降伏。尼子勝久(あまごかつひさ)は自害し、山中鹿介幸盛は生け捕りとなりました。幸盛はそのまま備後国(広島県)鞆の毛利輝元のもとへ連れていかれましたが、道中で殺害されています。

信長の三木城攻略の命令を受けて、信長の嫡男である織田信忠(おだのぶただ)の援軍が総大将となり、秀吉も合流。兵庫県加古川市の神吉城(かんきじょう)や志方城(しかたじょう)を攻撃します。やがて神吉城が落ちると、志方城の櫛橋左京進もまた兵士の助命と引き換えに自害して降伏しました。
秀吉は籠城する三木城への食糧の補給路を断つために、まずは周囲の支城を次々と攻略したのです。

その後、三木城攻略の背後で、またも大きな裏切りが発覚…!

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画像引用:加古川観光協会様(http://kanbee.kako-navi.jp/spots/kakoagwa)
姫路市書写山ロープウェイ様(http://www.mt-shosha.info/index.html)