戦国史上最も残虐だったとされる作戦・鳥取の渇え殺し

鳥取の渇え殺しと淡路平定

 摂津・播磨の次なる戦場

官兵衛が大名に取り立てられる3ヶ月ほど前の天正8年(1580年)6月のこと。
播磨、但馬に引き続きそのまま進路を北西にとった秀吉は、次なる目標を因幡(鳥取県)に定めました。因幡国の鳥取城主・山名豊国(やまなとよくに)は輝元陣営でしたので籠城で抗戦を始めますが、すぐさま信長に降伏。
しかし、それを許さなかった者たちがいました。豊国の家臣たちです。家臣の中村春続(なかむらはるつぐ)・森下道誉(もりしたどうよ)は、城主であった豊国を城から追放してしまうのです。

そして輝元に応援を頼み、それを受けた吉川元春は家臣を派遣。ただ、その家臣が死んでしまったために、元春は一族の吉川経家(きっかわつねいえ)を新たな鳥取城主として送り込みました。秀吉軍との徹底抗戦を覚悟した経家は決死の覚悟で城入りします。一説には自分の棺桶を持参して入城したとも言われています。
天正9年(1581年)3月のことです。

山名豊国
▲山名豊国像(山名蔵所蔵)

かたや、方角を南に移して、四国でもきな臭い動きが表面化していました。
土佐(高知県)を制圧した長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、信長とは良好な関係を築いており、四国は好きにしろと一任されていました。そこで隣国の阿波(徳島県)に攻め入ろうとします。しかし、阿波は元来輝元側だったのが三好氏の没落後、信長方についており、信長方同士で対立する厄介なことになってしまっていたのです。

元親軍は怒涛の勢いで侵攻し、阿波どころかさらに讃岐(香川県)までも平定。阿波の三好氏はこりゃかなわんと、信長に救援を要請します。対する信長は元親の急進ぶりを警戒し、元親に阿波の北半分と讃岐の返上を命じました。
しかし、自分の力で得たものであり、信長にもらったわけではない領地をなぜ返上せねばならぬのか、と正論をぶちまけ断固拒否。
ここにきて、信長と元親に大きな亀裂が入ってしまうのです。

ちょうどそのころ…
武田勝頼 天正9年(1581年)

高天神城の戦い

たかてんじょうじょうのたたかい

遠江・駿河の国境近くにある高天神城を武田氏に奪われていた徳川家康は、長篠の戦いで敗れた武田勝頼をさらに打ち負かさんと、城を兵糧攻めにし、勝利。武田氏の威信は失墜しました

写真は武田勝頼像

 官兵衛、鳥取城攻めの策を実行する

鳥取城に話を戻しましょう。
秀吉は鳥取城を攻めるにあたり、官兵衛の策を採用しました。
いたずらに攻め立てても、味方の兵を失うだけ。かと言って、単に城を取り囲んで兵糧攻めにしたところで、兵糧が尽きて降参するまで時間が掛かり過ぎます。実際、三木城の戦いでの籠城は1年10カ月も続いたのです。そこで官兵衛が出した策略とは…

決断!

官兵衛の作戦とは?

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正解 米を買い占めた

官兵衛のアイデアとは、因幡国内の米を相場の倍の価格で全て買い取ることでした。欲に目がくらんだ領民だけでなく、鳥取城の兵までも兵糧米を売ってしまい、城内の米の在庫は一気に減ってしまったのです。
さらに追い討ちをかけるべく、天正9年(1581年)6月に鳥取入りした秀吉と官兵衛の軍は、城を攻める前に城下の家々を放火してまわります。家を失った領民はやむを得ず鳥取城に逃げ込みました。城内の人口は急激に膨れ上がり、反対に兵糧米は減ってしまっているという状況を見事に造り上げたのです。
その上で、秀吉軍は鳥取城を取り囲み、兵糧攻めを開始しました。

 鳥取の渇え殺しと淡路平定

兵糧攻めを開始して2ヶ月もすると、城内の食糧はほぼ尽きてしまいます。
米はもちろん、城内で飼っていた牛馬まで食べてしまい、3カ月目にもなると餓死者が出るありさまでした。

来るはずの輝元の援軍は、秀吉軍に阻まれ城に近づくこともできません。
挙句、餓死した者の肉を食べるという地獄の様相を呈してきました。もうどうにもならぬと城から逃げ出した者は、秀吉軍から鉄砲で撃たれ、その撃たれた者の肉を、まだ息があるのにも関わらず城内の者が手足を斬って我先にと争って食う始末。
竹中半兵衛の子・竹中重門(たけなかしげかど)が記した秀吉の伝記である豊鑑(とよかがみ)という書物には「糧尽きて馬牛などを殺し食いしかども、それも程なく尽きぬれば餓死し、人の宍(しし・肉のこと)を食合へり」とあります。

人が人を食うこの凄惨な作戦は鳥取の渇え殺し(かつえごろし)と呼ばれ、数あまたの戦いが巻き起こった戦国時代の中でも一二を争う惨憺ぶりでした。

鳥取城跡から見下ろす鳥取市街地と仁風閣
▲鳥取城跡から見下ろす鳥取市街地と仁風閣(鳥取県鳥取市東町2-121)

結果、わずか4カ月で落城。吉川経家は兵士の助命を条件に降伏します。秀吉は経家の戦いぶりをあっぱれとし、彼の助命を決めましたが、経家は責任を断固としてとると主張。秀吉が信長に事態を報告したところ、信長は経家の切腹を許可しました。それを受けて経家は自害し、絶命したのです。
こうして因幡は信長の支配下に納まりました。

鳥取城が落城する1ヶ月ほど前。
阿波からの救援要請を受けた信長は、秀吉に三好家の救済を命じます。鳥取城攻めで手が離せなかった秀吉は、四国行きの任務を官兵衛に託しました。
鳥取から播磨を通り四国へ渡るには、淡路島を通るのが常道。しかし、その淡路島にも官兵衛の敵がいたのです。阿波は秀吉の家臣である仙石秀久(せんごくひでひさ)に任せ、官兵衛はまず淡路平定に着手しました。

淡路の敵とは、安宅清康(あたぎきよやす)。淡路島中央部にある洲本城と由良城を居城にした武将で、もともとは信長側に立っていましたが、既に輝元側に寝返っていたのです。
官兵衛は彼自身の手で清康を討ち取り、城はあっけなく開城。その際に使用したとされる刀は「名物 安宅切り」と呼ばれ、現在も福岡市博物館に所蔵されています。
無駄な殺生を嫌う官兵衛。彼が自ら斬り捨てた人の数は生涯で2人であったと言われており、そのうちの一人が清康でした。

因幡を落とした秀吉軍はいよいと輝元軍との決戦に挑みます…

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画像引用:鳥取県広報連絡協議会様(http://www.kouhouren.jp/album/)