毛利との対戦の舞台は岡山・備中高松城。そこでとった官兵衛の策略とは?

備中高松城の水攻め

 宇喜多直家と小寺政職の死

天正9年(1581年)、因幡と淡路を征した秀吉と官兵衛は、いよいよ毛利輝元の本拠地である安芸(広島県)を目指します。
となれば通過せねばならぬのが備前と備中(岡山県)。備前は宇喜多直家の領地であり、荒木村重に幽閉される前に官兵衛の調略により信長方への転向を成し遂げていましたが、直家が病に倒れ、家内が再び揺れていたのです。

備前を完全に味方にしておかねばならない。中途半端なままでは危なっかしい。そう考えた秀吉は、信長の本領安堵の書面を持参して直家のもとを訪ねました。そして直家の子・宇喜多秀家(うきたひでいえ)を秀吉が養子とし、後見することで病床の直家の信任を勝ち取るのです。

そのすぐあと、年の暮れに直家は死亡。しばらく直家の死は隠匿され、翌年1月に公に明かされました。

宇喜多秀家
▲宇喜多秀家像

かたや鞆の浦に逃げのびていた小寺政職もまたそのころ、この地で死を迎えます( 天正12年(1584年)死亡の説も)。
父とともに鞆の浦にいた子たちのうち、長男の小寺氏職(こでらうじもと)は官兵衛に引き取られました。
政職は官兵衛を裏切った主君ではありましたが、その子には何の罪もない、というのがその理由です。

ちょうどそのころ…
伊東マンショとグレゴリウス13世の謁見の場面 天正10年(1582年)

天正遣欧少年使節出港

てんしょうけんおうしょうねんしせつしゅっこう

九州のキリシタン大名の名代として4名の少年を中心とした使節団が長崎を出港。2年半の歳月をかけてポルトガルのリスボンに到着しました

写真は伊東マンショとグレゴリウス13世の謁見の場面

 官兵衛、備中高松城を攻める

備前を完全に支配下にした信長は、秀吉に備中攻めを命じます。
天正10年(1582年)3月、秀吉は2万の兵を率いて播磨を出発。さらに備前から宇喜多軍1万の加勢があり、計3万の大軍で備前備中国境まで迫りました。

国境近くでは輝元側が7つもの城でしっかり防御を固めていました。境目七城と呼ばれ、それぞれ宮路山城(みやじやまじょう)、冠山城(かんむりやまじょう)備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)、加茂城(かもじょう)、日幡城(ひばたじょう)、庭瀬城(にわせじょう)、松島城(まつしまじょう)
その中核を担った主城が、清水宗治(しみずむねはる)が守る備中高松城でした。


▲姫路城(ピンク色ピン)と備中高松城(黄色ピン)の位置

秀吉軍は周囲の小城を次々と攻め落としつつ、同時に官兵衛が宗治と和睦交渉を行いますが、これが難航。輝元との結束が固い宗治は、官兵衛が出す備中・備後(広島県東部)の本領安堵という条件を呑もうとしません。
そうするうちに備中高松城以外の6つの城は、全て秀吉軍によって陥落。ちなみに、この戦には官兵衛の子・長政が初めて出陣しています。

輝元からの援軍も加わって勢いづいた宗治は、城の周囲を秀吉軍に取り囲まれても変わらず徹底抗戦を誓います。
かたや秀吉軍は城を攻めあぐねていました。なぜならば備中高松城は沼城と呼ばれる湿地にある城で、一斉に兵馬で攻め立てようにも足をとられて動けず、城への道は細いため、そこを通ろうものなら城内から鉄砲で撃たれて兵を失うだけだったからです。

備中高松城址
▲備中高松城址(岡山県岡山市北区高松)

こうなれば正攻法では埒が明きません。そこで官兵衛は妙案を思いつきます。備中高松城は三方を山に囲まれた平地にあり、残る一方の先には足守川(あしもりがわ)が流れていました。
ちょうど梅雨時季で川の水量も多かったことから、この水を使って、城を水で浸水させてしまおうと考えたのです。

秀吉は即OKを出し、官兵衛たちに堤防工事に着手させます。城を囲む三方の山の端と端を結ぶ線上に高さ8mもの堤防を、なんと3~4kmにも渡って築きあげました。しかもわずか2週間ほどの期間で。周辺の農民に破格の報酬を出して俵で作った土嚢を持って来させるという案が功を奏しました。

これにて城を大きく取り囲む形で壁が完成し、あとは堤防内に足守川の水を引き込むだけとなりました。
しかし、増水した川の水を堰き止めることはなかなか困難です。水門などは当然ありません。
官兵衛はどうやって水を堤防内に引き込んだのでしょう?

決断!

官兵衛が出した水を堰き止める案とは?

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正解 船を沈めた

官兵衛は足守川の下流から船を30隻あまり調達し、船内船上に石を多量に積み込ませました。その上で、堰き止めたい箇所で船底に穴を開け、船を沈めたのです。
大量の船によって堰き止められた川水は、そのまま堤防内に注ぎ込み、あれよあれよという間に湖上に浮かぶのは城の建物のみとなりました。
城の中まで浸水し、兵は城の中を小舟で行き来せざるを得ないほどだったと言われています。

浮島状態となった備中高松城。あとは輝元の降伏を待つだけのはずが…

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画像引用:公益社団法人岡山県観光連盟様(http://www.okayama-kanko.jp/modules/kankouinfo/pub_photo_search.php)