秀吉・官兵衛の怒涛の進軍「中国大返し」に明智光秀は度肝を抜かれます

官兵衛と中国大返し

 清水宗治の降伏

天正10年(1582年)6月3日夜。信長謀反に倒れるとの報せを官兵衛が受けてから、わずか数時間後のことです。軍内に緘口令を敷いて、信長の死の情報が漏れないようにした官兵衛は、その日のうちに安国寺恵瓊を自陣に招いて調停を畳みかけました。もはや輝元を説得するのではなく、眼前の清水宗治を説き伏せた方が早いと見込んだのです。
なにせ時間がありません。信長に謀反を起こした京の明智光秀を早急に討たねばならないからです。とりあえず完全勝利ではなくとも妥協点を探り、すぐに輝元と講和を結ぶ必要がありました。

調停案は、当初秀吉が要求していた「備中・美作・備後・伯耆・出雲の計5カ国の割譲と宗治の切腹」から、「備中・美作・伯耆の計3カ国の割譲と宗治の切腹」に緩和。信長の死を知らない安国寺恵瓊は、調停案を受けたその足で備中高松城に入り、宗治を説得しました。また、調停案にはお互いに人質を交換し合うことも盛り込まれました。

秀吉側の新たな調停案による割譲範囲
▲秀吉側の新たな調停案による割譲範囲

城兵の助命を条件に降伏を受け入れた宗治は、秀吉から贈られた酒と肴で別れの宴を行いました。翌4日の朝、小舟に乗って城を出て、水上で舞を納めたのち自刃します。その堂々たる姿を、秀吉は天晴れな武士だと称賛しました。

信長死亡の報せが輝元側に届いたのは、宗治の死のすぐあとのことでした。

 中国大返しの強行軍

信長の死を知った輝元側・吉川元春は、状況が変わった以上、当然に講和を破棄して秀吉軍を攻撃すべきだと主張しました。しかし、小早川隆景はその意見に反対します。一度約束を取り交わした以上、遵守すべきであるとの正論で元治の意見を封じ込め、輝元もまた隆景の意見に同意しました。

講和がまとまったからには、もうこの地に用はありません。輝元軍が攻めてこないことを見届けた上で、秀吉軍は京へ向かって軍勢を動かし始めました。
万が一、輝元軍が講和を破棄して追撃してきた場合のことも考えて、官兵衛は湖となった備中高松城周辺の築堤を決壊させて、周囲を水浸しにし、秀吉は備前の宇喜多家に命じ、防波堤となるよう待機させる周到ぶりです。

秀吉軍は6日に備中高松を出発して、その日のうちに沼城(ぬまじょう・岡山県岡山市東区)に到着。翌日の夕方には暴風雨の中、近隣住民を集め、人の鎖を作って氾濫する川を渡り、姫路城に帰着しています。

中国大返しの行程
▲中国大返しの行程

かなりの強行軍ゆえに、秀吉軍は姫路城で1日半の休息をとりました。このとき、秀吉は城の蔵の金銭や米穀を全て兵士たちに分け与えています。これはいわゆる褒美であり、なおかつ姫路城に留まらず光秀を討つ意思表明であったとされています。

9日の朝、姫路を再度出発。東征します。その日のうちに明石(兵庫県明石市)、翌日には兵庫(兵庫県神戸市兵庫区)に到着。11日には尼崎(兵庫県尼崎市)まで到達しました。

播磨横断は秀吉の領内ですから弾丸行程で進めましたが、兵庫以東は摂津国になります。荒木村重の例もあったように、摂津国内の大名の動きはまだまだ未知数。
そこで、官兵衛には、周辺大名が秀吉軍に歯向かっても勝ち目がないことを知らしめる必要性が出てきます。

決断!

官兵衛はどんな策をとった?

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正解 「毛利家の旗を掲げた」

官兵衛は備中高松城を出発する前に、あらかじめ隆景に毛利家の軍旗を借り受けていました。それを行軍する際に、味方兵に掲げさせたのです。
それを見た摂津の大名が、秀吉軍は毛利家まで味方に付けたのか、これでは秀吉に逆らっても勝ち目はない、と思うに十分な効果を発揮しました。茨木城の中川清秀や高槻城の高山右近が、秀吉の傘下に下ったのです。

こうして摂津を横断して、12日の夜には富田(とんだ・大阪府高槻市)に入った秀吉軍。光秀が陣取る京はもうすぐそこです。

秀吉軍は京のすぐ手前。天王山にてぶつかり合う山崎の戦の行方は…?

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