のちに光秀の三日天下との揶揄を受ける結果となった山崎の戦い

山崎の戦い~天王山に散る三日天下

 洞ヶ峠を決め込む筒井順慶

天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変のあと、近江を平定した明智光秀は、5日に安土城に入り、信長の財宝を家臣に分け与え、諸大名を味方につけようと画策します。
しかし、信長の突然の死の真偽を疑う者や、信長に忠義を示す者などが相次ぎ、光秀の思惑通りにはなかなか事が運びません。

さらに光秀は、朝廷を味方につけるべく9日に京に入り、金品で工作を図ろうとしました。その際に朝廷から従三位、中将と征夷大将軍の宣下を受けたとされていますが、正式な記録は残っていません。ちなみに天正10年当時の征夷大将軍は未だ足利義昭のままでした。

光秀の親戚であった大和国・郡山城主筒井順慶(つついじゅんけい)は、光秀に挙兵を誘われ、一度は出兵します。
ところが順慶は秀吉側に再度寝返ろうか、光秀の助けをするか決めかねており、結局のところ光秀が陣を張る洞ヶ峠ほらがとうげ・大阪府枚方市と京都府八幡市の府境)まで順慶の兵が到達することはありませんでした。

洞ヶ峠
▲現在の洞ヶ峠(大阪府枚方市長尾峠町、京都府八幡市八幡南山)

そして本能寺の変からわずか8日後の10日。
光秀は、秀吉軍がとんでもない勢いで京に向かっているという報せを耳にしました。光秀は秀吉を迎え撃つために、兵を洞ヶ峠から下鳥羽(京都市伏見区)に大慌てで後退させます。
この順慶のエピソードから、コウモリのようにどっちつかずの日和見をする行為を「洞ヶ峠を決め込む」と言うようになりました。

 天王山で切られた戦いの火蓋

6月12日夜に富田で軍議をした秀吉は、信長の三男である織田信孝(おだのぶたか)を総大将に推すも、信孝は秀吉を総大将に推します。名実ともに光秀追討軍の首領となった秀吉は、中国大返しの道中で味方につけた茨木城の中川清秀や高槻城の高山右近に先鋒を任せました。

秀吉軍は天王山(てんのうざん・京都府大山崎町)に陣を張ります。天王山周辺は山と淀川の流れに挟まれた狭い土地。その左手の山側に官兵衛の軍勢、中央に先鋒隊の清秀・右近の軍勢、右手の淀川側に池田恒興の軍勢、そして後方に秀吉の本陣といった按配です。

対する光秀軍は本陣を下鳥羽から御坊塚(ごぼうづか・京都府大山崎町下植野)に南進させ、ちょうど円明寺川(小泉川)を挟んで対峙する形となりました。


▲光秀軍(青色ピン)と円明寺川(青色線)を挟んで対峙する秀吉軍。
官兵衛軍(赤色ピン)、清秀軍(黄色ピン)、右近軍(黄緑色ピン)、恒興軍(水色ピン)が左右中央に陣を構え、秀吉の本陣(紫色ピン)は後方

13日夕刻に、それまで対峙していた両軍がぶつかります。先鋒の清秀・右近の軍は光秀軍の猛攻に一時窮地に陥りましたが、恒興軍が円明寺川を渡って光秀軍を奇襲し、状況は逆転しました。それに続いて官兵衛軍もなだれ込みます。
そもそも光秀軍16,000対秀吉軍40,000という戦力差があり、もとより光秀軍に勝ち目は望めない戦でした。

10,000以上の兵を失った光秀は御坊塚から後退し、勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)に退避。立て籠もります。

勝竜寺城公園
▲勝竜寺城公園(京都府長岡京市勝龍寺13-1)

追撃する秀吉軍は、たやすく城を包囲しました。そこで官兵衛は佐用城攻めで用いた「囲師必闕(いしひっけつ)」の戦法で、逃げ口を1か所開けるよう秀吉に進言。
案の定、夜の闇を利用して光秀は城を脱出します。そのまま坂本城まで逃げおせるかと思いきや、道中の小栗栖(おぐるす・京都市伏見区小栗栖(おぐりす))で落ち武者狩りの集団に襲われて絶命してしまいました。

本能寺の変からわずか11日間の天下人だった光秀のこの故事から、「三日天下」の慣用句が生まれました。

さて、洞ヶ峠を決め込んだ筒井順慶ですが、戦が終わった14日になってようやく出発し、のこのこと秀吉の前に現れます。さすがに秀吉も順慶を叱り付けたのだそうで、順慶はそのショックで体調を崩してしまったのだとか。

光秀亡き後、信長の後継者選びへと舞台は移り…

続きを読む

画像引用:wikipedia/Route171様(http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E6%B4%9E%E3%83%B6%E5%B3%A0)、長岡京市観光協会様
(http://www.nagaokakyo-kankou.jp/html/sightseeng/s04.html)