黒田官兵衛が生まれた場所は2つある?

官兵衛はどこで生まれた?

 黒田職隆、小寺氏の家老となる

目薬の利益で富を築いた重隆。家来の数も200名を数える大所帯となりました。息子の職隆も成長しており、ともに次なる野望は政治的権力を持つことでした。
当時、姫路に御着城(ごちゃくじょう)を構えて、権勢を奮っていたのが小寺政職(こでらまさもと)。彼に仕えて庇護を受け、さらに力をつけようと考えたのです。
とはいえ、小寺氏には既に大勢の家臣がいましたので、それらを撥ね退けるにはなにか大きな手柄が必要と考えた職隆。ならば小寺氏の敵の首を捕って、これを差し出せば良いと考えます。

御着城跡
▲御着城跡(兵庫県姫路市御国野町御着)

ちょうどおあつらえ向きに良い敵がいました。小寺家の所領を荒らしていた香山(兵庫県たつの市)の香山重道(こうやましげみち)がそれです。職隆は正月前で気を緩めている隙を狙って夜討ちをかけました。夜襲はまんまと成功。
小寺政職は大いに喜び、職隆を家老に取り立て、さらには養女を職隆に嫁入りさせたのです。職隆の名も実はそのとき政職から一文字もらい受けて改名したもので、もとは満隆と名乗っていましたが、姓ともども小寺職隆としました。
そして小寺氏が城主を勤めていた姫路城の警護をも職隆に任せるほどの厚遇を得たのです。


▲御着城(黄色ピン)と香山(赤色ピン)の位置

とはいえ、この職隆による香山氏夜討ちのくだりは、創作だとも言われています。香山重道なる人物が香山氏の系統に存在しないためです。時代的に香山秀義(こうやまひでよし)が重道ではないかともされますが、確証はありません。

 黒田官兵衛誕生

戦乱の世の中だからこそ情報収拾は欠かせません。姫路城に入った職隆は百間長屋を建てて、姫路近辺の下層武士や行商人たちを住まわせました。それは彼らが集めてくる情報を得るためでもあったのです。

職隆が姫路城に入って1年後、天文15年(1546年)の初冬に官兵衛が誕生しました。その日は一面の雪景色で、姫路が白く染まった日の生まれゆえに縁起が良いと、職隆は喜んだのだとか。
官兵衛の母親は小寺政職の養女であった女性で、名は(いわ)。もとは播磨枝吉(えだよし)城主・明石正風(あかしまさかぜ・宗和・長行)の娘でした。正風は武人にも関わらず関白・近衛家に歌道を教授するほどの歌人で、娘である岩にもその才が受け継がれていたようです。

官兵衛は幼名を万吉(まんきち)といいました。幼少期は元気で活発、屋内でじっとしているよりも外でチャンバラやらで暴れ回るやんちゃな遊びに興じていたみたいですが、7歳のときからは浄土宗の僧侶・円満(えんまん)に読み書きを教わるようになりました。

枝吉城址碑
▲枝吉城址碑(兵庫県神戸市西区枝吉4-7-2)

 官兵衛のもうひとつの生誕地

官兵衛は姫路で生まれたのではない…
そんな説もあります。

ではどこで生まれたのかというと、同じ播磨の北東部にある黒田庄(くろだしょう)。現在の西脇市です。
その根拠は姫路に伝わる古文書「心光寺旧記」「国府寺家旧記」や、福岡藩(現・福岡県)が文政12年(1829年)に行った播磨の調査記録である「播磨古事」。こちらに「播磨國多可郡黒田村の産なり」などと記されているのです。
さらに平成23年(2011年)には黒田庄の荘厳寺(しょうごんじ)において黒田家略系図が発見され、その説を後押しします。

差異は出生地だけにとどまりません。
それらによれば、官兵衛の父親は職隆ではなく、祖父の重隆だといいます。そして重隆の妻は播磨守護・赤松則村(あかまつのりむら)の流れをくむ比延常範(ひえつねのり)の娘・(まつ)で、懿讃院(いさんいん)という法名でした。彼女こそ官兵衛の母ということになります。

荘厳寺
▲荘厳寺(兵庫県西脇市黒田庄町黒田1589)

官兵衛の祖父だとされてきた重隆が実父だとなると、官兵衛の父とされてきた職隆は一体どうなるのでしょうか?

江戸時代の地誌「播磨鑑(はりまかがみ)」によれば、職隆は小寺政職の兄とされています。つまり黒田家の人間ではなく、小寺氏であるという話なのです。御着城は弟の政職が、姫路城は職隆がそれぞれ治めていたことになります。
そして官兵衛は小寺職隆の猶子(養子)になったと書かれているのです。
養子になったということは、黒田家には家を継ぐ者が官兵衛の他にも居たということになります。そうです。官兵衛には兄がいたのでした。名を治隆(はるたか)といい、黒田庄の黒田城を継ぎましたが、のちに戦死し、城は落城。本家は断たれてしまいました。

黒田城跡
▲黒田城跡・稲荷神社(兵庫県西脇市黒田庄町黒田字姥が懐)

黒田城跡は黒田庄の東、山手の姥が懐(うばがふところ)というところにあり、官兵衛生誕地でもあります。

また、城跡の西には加古川が流れていて、ここに松ヶ瀬と呼ばれる淵があります。この淵は官兵衛の母の松の名が由来なのです。
官兵衛が幼少の頃、敵が城を夜襲してきました。危機一髪で官兵衛を抱えて城を脱した家老は、松とともに加古川の流れまでやってきましたが、あいにくの大雨による増水で渡ることもままなりません。敵はすぐにでも追ってきます。
そこで松たちがとった行動とは…?

決断!

3人はこのあとどうしたでしょう?

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正解 濁流に飛び込んだ

他に手段はありません。家老は官兵衛を抱いたまま、松の手をとり川へ飛び込みます。しかし流れの速さに敵うことができず、家老と官兵衛は助かったものの、松は溺死してしまいました。
それゆえこの場所を松ヶ瀬と呼ぶのだそうです。
一方、官兵衛はその足で姫路城に逃げ込み、難を逃れることができました。
ただしこの伝説は曖昧な点が多く、黒田城落城時には官兵衛は成人していて城にいなかったことを考えると信憑性は薄いとされています。

元服して成人となった官兵衛は嫁を迎えますが…

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画像引用:wikipedia/Corpse Reviver様(http://ja.wikipedia.org/wiki/
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wikipedia/ブレイズマン様(http://ja.wikipedia.org/wiki/
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西脇市様(http://www.city.nishiwaki.lg.jp/kakukanogoannai/soumubu/
hisyokouhouka/furusato/index.html)