キリシタンになった官兵衛、嫁を娶った長政。親子の戦いはまだまだ続く

小牧・長久手の戦いと四国攻め

 官兵衛のキリスト教入信と長政の結婚

天正11年(1583年)、官兵衛はキリシタン大名の高山右近や、右近に入信を勧められて信徒になった小西行長(こにしゆきなが)に影響され、教会に通うようになり、洗礼を受けます。洗礼名は傾聴するを意味するドンシメオン
これ以降、官兵衛は領民にキリスト教の布教を実施するようになりました。

小西行長
▲小西行長像(太平記英雄傳)

また大坂城築城と並行して進められていた輝元との国境線の画定交渉がようやく決着しました。勝家を滅ぼして勢いづく秀吉でしたが、意外なことに輝元側の出した条件「備中国と伯耆国は双方で分け合う」を受託することで双方は合意。秀吉は輝元の条件を全て呑むことで、余計なトラブルの発生を封じ込めることを優先したのです。

続いて官兵衛は、輝元から秀吉へ割譲された美作国、備中国と伯耆国のそれぞれ東半分の各城へ、城の明け渡しに出向きました。輝元が決定したこととはいえ、明け渡しを拒む各城主たちの抵抗もあり、接収には時間を要する羽目になります。

年が改まって天正12年(1584年)1月。17歳になった長政は、城の明け渡し交渉にともに臨んでいた秀吉の家臣・蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)の娘・(いと)と婚姻しました。
官兵衛と正勝は三木合戦鳥取の渇え殺し備中高松城水攻めでも共に闘った戦友です。また正勝は播磨国龍野に5万3千石を所有しており、官兵衛の領地のすぐそば、いわばご近所さんでした。
ただ、それ以上にこの結婚は秀吉側の意図を大きく含んでいます。家臣同士を縁組させて親戚とすることで家臣団の結束を強めるのが秀吉の狙いでした。信長に謀反を起こした光秀を討っただけに、秀吉は家臣の裏切りを大いに恐れていたのです。

 小牧・長久手の戦い

官兵衛が西で城の接収交渉に励んでいる間に、東で不穏な動きが表面化してきました。
信長の次男・信雄が秀吉に安土城から追放され、東へ流れて徳川家康と結び付いたのです。家康はすぐに根来衆(ねごろしゅう・和歌山県の根来寺の僧兵)、土佐の長宗我部元親、越中(富山県)佐々成政(さっさなりまさ)、相模(神奈川県)北条氏政(ほうじょううじまさ)らと手を結び、秀吉包囲網を形成します。

天正12年(1584年)3月。織田家の家臣ゆえに家康側だったはずの池田恒興が、突如秀吉側に寝返り、犬山城(いぬやまじょう)を占拠しました。
そこで家康軍は秀吉が派遣した軍勢と交戦になります。奇襲が功を奏して家康軍が勝利を収めました(羽黒の戦い)。

犬山城
▲犬山城(愛知県犬山市犬山北古券65-2)

手痛い負け戦を食らった秀吉は、やはり自身が出陣せねばと、大坂を出発して4月に犬山に到着。
ところが、その隙を突いて根来衆が大坂城へ向けて侵攻してきました。秀吉は長政たちに出陣を命じ、長政は途中の岸和田城(きしわだじょう・大阪府岸和田市)で見事に敵を撃退し、勝利を収めます。

かたや犬山の秀吉は、家康軍の居場所を迂回して家康の本拠である三河国・岡崎城(おかざきじょう・愛知県岡崎市)を攻める作戦に出ていました。この作戦は池田恒興の発案だとの説もありますが、秀吉自身のアイデアだとする説が有力です。
秀吉は眼前の家康軍に目を光らせていたため、家臣の羽柴秀次(はしばひでつぐ)を総大将とする家臣団が4つの部隊に分かれて、岡崎城へ向けて出発しました。

しかし家康はその上手を行き、岡崎城攻めの行軍情報をいち早くキャッチ。岩崎城の戦いでは池田恒興の軍勢が勝利したものの、羽柴秀次の軍勢は休息中に奇襲され敗退。いよいよ長久手(ながくて・愛知県長久手市)の地にて決戦となりました。
この長久手の戦いは、家康軍の圧勝に終わります。池田恒興はこの戦いで討ち死にしました。

長久手古戦場公園
▲長久手古戦場公園(愛知県長久手市武蔵塚204)

命からがら秀吉のもとに逃げ戻った秀次は、秀吉にひどく叱責されます。秀吉もやむなく大坂へ退却しました。
この敗戦は官兵衛不在ゆえに起きたものかもしれません。

その後、三河を直接攻めるのが難しいなら周辺部攻略しかないと、秀吉は尾張国の竹ヶ鼻城(たけがはなじょう)などを水攻めします。家康が救援の軍を送らなかったため、竹ヶ鼻城は落城しましたが、続いて秀吉が攻めた蟹江城(かにえじょう)での戦いでは家康軍が勝利を収め、一進一退となりました。

ただ、秀吉の別部隊が信雄の所領である伊勢国・伊賀国(三重県)侵攻に成功したこともあり、その年の11月になって秀吉と信雄の間で講和が成立します。信雄は伊賀国と伊勢の半分を秀吉に割譲し、この結果、家康も兵を引き揚げました。
次いで秀吉は家康とも和議を結び、家康の次男である結城秀康(ゆうきひでやす)を大坂に招いて秀吉の養子とし、これにてようやく東の不協和音が取り除かれたのです。

なお、この年の7月、官兵衛は播磨国宍粟郡の山崎城(やまざきじょう・篠ノ丸城・兵庫県宍粟市)を与えられ、石高は5万石となっています。

 官兵衛の四国攻め

年が明けて天正13年(1585年)。根来衆の完全討伐のため、秀吉は羽柴秀次率いる軍を派遣し、紀州平定を成し遂げます。

そのころ紀伊水道を挟んだ四国では、長宗我部元親が覇権を広げている最中でした。元親はかつて信長と対立し、信長により征伐軍を送られるところでしたが、軍の派遣は信長の死によってうやむやになってしまっていたのです。

そうこうするうちに元親は讃岐国(香川県)をほぼ平定。続いて伊予国(愛媛県)までも支配下にし、四国平定をほぼ成し遂げるまでになっていました。

長宗我部元親
▲長宗我部元親像

秀吉は当然危機感を露わにします。双方協議をし、元親も貢物を送って寛大な秀吉の処置を期待しますが、秀吉の回答は讃岐・伊予の返上でした。元親は伊予一国ならば応じると返したものの、秀吉が納得するはずがありません。

5月。秀吉は官兵衛に四国攻めの先鋒を命じました。讃岐から攻め込む作戦で、同時に秀吉の異父弟・秀長(ひでなが)が阿波(徳島県)から、輝元が伊予からの計三方向での攻め入りです。秀吉は病にかかり、出陣しませんでした。

元親は堅固な植田城(うえたじょう・香川県高松市)を新造し、ここに讃岐の守りを固めます。そして自身の本陣を阿波の白地城(はくちじょう・徳島県三好市)に置きました。白地城は四国の中央に位置し、讃岐へも阿波へも伊予へも進軍しやすかったためです。

讃岐の屋島から攻め入った2万3千の官兵衛軍は、讃岐の数ある城を次々と落としていきます。そしてついに、讃岐の守りの砦たる植田城を攻める場面となりました。

決断!

官兵衛はどんな策をとった?

クリックで正解を表示
正解 「植田城を無視して阿波へ向かった」

官兵衛軍は讃岐の他の城よりも一層強く警護を固めた植田城を必死になって攻撃してくるに違いないと元親は予想しました。
植田城攻撃で官兵衛軍に足止めを食らわせ、背後から別部隊が奇襲する作戦を立てたのです。

しかし、官兵衛は他の城と植田城の守りの差の不自然さに気付いていました。さらに元親が白地城に居るという情報も入手しており、いたずらに植田城で戦力を消耗するより、阿波へ兵を進めて元親を討つのが最善だと判断したのでした。

 長宗我部元親の降伏

阿波に辿りついた官兵衛軍は、先に阿波入りして木津城(きづじょう・徳島県鳴門市)を取り囲んでいた秀長軍と合流。大軍に膨れ上がった軍勢相手に勝ち目はないと踏んだのでしょう、あっさり開城します。
近隣の他の城主も城を捨てて逃げ出し、阿波で残るは4つの城だけになりました。

ここで隊をふたつに分け、秀長軍は蜂須賀正勝を軍師に一宮城(いちのみやじょう・徳島県徳島市)へ、秀次軍は官兵衛を軍師に岩倉城(いわくらじょう・徳島県美馬市)へ向かいます。

岩倉城主・比江山親興(ひえやまちかおき)は、長宗我部の一族の中でも勇猛の名高さを誇っており、正面から武力でぶつかれば双方に大きな損害が出るであろうと官兵衛は予測しました。
そこで心理戦に打って出ます。官兵衛は城のそばに城よりも高い櫓を組ませ、櫓から城内に一日に三度大砲を打ち込みました。そして勝鬨(かちどき)の叫び声を全員でがなりたてることで、城内の兵を精神的に追い込んだのです。
作戦は大当たり。わずか19日間で兵を損失せずに開城の運びとなりました。


▲屋島に上陸した官兵衛軍は、植田城(青色ピン)をスル―。
阿波に入り、 木津城(水色ピン)、岩倉城(黄色ピン)、白地城(赤色ピン)へと進軍しました

秀長軍も一宮城を落とし、秀次軍とともに、元親の居城・白地城に迫ります。既に伊予も落ちていましたが、元親はあくまでも徹底抗戦の構えでした。
しかし、明らかに勝ち目はないと元親の家臣たちが元親を説得。
7月。わずか2ヶ月の戦いは、元親の降伏で幕を閉じたのです。

講和は蜂須賀正勝が仲介を務め、阿波・讃岐・伊予の割譲などの条件でまとまりました。蜂須賀正勝の長男・家政(いえまさ)が阿波を拝領するなどの論功を得ましたが、同じく大きな活躍をした官兵衛には特に論功はありませんでした。
それとは逆に秀吉は7月に関白に任命され、驚異の立身ぶりを見せています。

8月。官兵衛の父・職隆が死亡します。享年62。官兵衛は、このとき40歳でした。

四国を平定し、戦いの舞台はさらに西へ…

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画像引用:犬山城様(http://inuyama-castle.jp/)、長久手市観光交流推進会議事務局様(http://nagakute-kankou.com/rekishi/kosenjyo.html)