四国から次は九州へと戦いの場を移す官兵衛

官兵衛の九州攻め

 官兵衛、九州へ

官兵衛が中国攻め・四国攻めに精を出している間、九州でも大きく情勢が動いていました。
薩摩国(鹿児島県)の島津氏が勢力を大いに拡大し、肥前国(佐賀・長崎県)の龍造寺氏(りゅうぞうじし)や、豊後国(大分県)の大友氏と敵対。龍造寺氏や大友氏との戦いで勝利を収めた島津氏は、九州平定まであと一歩というところまで来ていたのです。

いっときは九州の6カ国を制覇していた大友氏でしたが、島津氏との争いでどんどんその領地は奪われ、このままだと大友は絶えてしまう…そう思ったのでしょう、大友宗麟(おおともそうりん・義鎮・よししげ)は大坂城へ出向き、秀吉の傘下に入ることを条件に軍事支援を願い出ました。

関白になっていた秀吉は朝廷の威光を利用し、天正13年(1585年)10月、惣無事令(そうぶじれい)を島津氏と大友氏に向けて発布します。惣無事令とは大名間の私闘を禁じるもので、いわば停戦命令。
大友宗麟はそれを受け入れましたが、島津義久(しまづよしひさ)は成り上がりの秀吉ごときの命令は受けられぬと拒否しました。自力で新たに得た領地の半分以上を大友氏に返還せよとの命令も当然無視し、義久は再度、宗麟の領地への侵攻を始めたのです。

大友宗麟
▲大友宗麟像

天正14年(1586年)4月。官兵衛は朝廷から従五位下を賜り、勘解由次官(かげゆじかん・地方行政監査人)に任命されます。
秀吉は命令に従わない島津義久を、関白、ひいては朝廷への謀反だとし、討伐を官兵衛や安国寺恵瓊たちに命じました。

このとき5万石の所領しかなかった官兵衛は、九州攻めに成功すれば一国を与える旨を匂わされたといいます。俄然張り切る官兵衛は2,500もの兵を掻き集め、まずは毛利輝元の居城である吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)へ入りました。

もともと大友氏と毛利氏は敵対し、睨みあっていた間柄。しかし秀吉が大友氏側に味方し島津氏を討つと宣言した以上は、輝元はそれに従わねばなりません。
輝元が安芸国、小早川隆景が伊予国、そして引退していた吉川元春も強い要請を受けて出雲国から各々出兵をはじめ、10月に豊前国(福岡県)に官兵衛共々上陸しました。

 官兵衛、豊前の城を次々と落とす

官兵衛たちは小倉城(こくらじょう・福岡県北九州市)を攻め落とし、続いて宇留津城(うるつじょう・福岡県築上町)攻めに移ります。宇留津城は周囲を深田と沼地に囲まれており、迂闊に兵が近づくと城内から容易く遠隔攻撃を受けてしまう守りの堅い城でした。いわば備中高松城のような構えです。とはいえ、海の近くにある城ゆえに窪地でもなく、備中高松城で実践したような水攻めはできません。


▲小倉城(黄色ピン)と宇留津城(黄緑色ピン)の位置

しかし、官兵衛は思わぬものを目にして勝機を捉え、わずか一日で城を落城させてしまうのです。

決断!

官兵衛が見た物とは?

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正解 「犬」

もちろんただ犬がいるのを見たというわけではありません。どこからかやって来た犬が城の濠をひょいひょいと渡って行った瞬間を目撃したのでした。
城の弱点ここにありと見切った官兵衛は母里太兵衛に先陣を切らせて大人数で突入し、あっという間に城を落としてしまったのです。

破竹の勢いよろしく、官兵衛と輝元の軍は次々に豊前国の城を落とし、戦隊は南下を進めて行きました。
数々の城攻めの途中で、吉川元春は命を落としています。

 戸次川の戦い

豊前国の各城を攻めながら、官兵衛は同時に各城主への調略をも並行して進めていました。といっても、城主と面会してくどくどと説き伏せる…ような類ではありません。怪文書をばらまいたのです。
「秀吉が親征してきたら逆らってはいけない。戦っても勝てるはずがない。島津義久から秀吉に寝返れば本領安堵が保証される。秀吉が到着したらすぐに服従の意思を示すべきだ」
いわばこのような内容でした。

これは来たるべき秀吉親征時に諸大名が秀吉にひれ伏すようにし、秀吉の機嫌をとるための官兵衛の演出だったとも言われています。

かたや義久軍は肥後(熊本県)から東へ進み豊後へ突入する部隊と、日向(宮崎県)から北へ進み豊後へ入る部隊により進撃し、宗麟の豊後は二方向から攻められる状況に陥っていました。
対する宗麟の居城・府内城(ふないじょう・大分県大分市)には、宗麟の援軍として土佐の長宗我部元親や讃岐の仙石秀久の応援が詰めており、守りは万全のはず…だったのですが…

府内城址
▲府内城址(大分県大分市荷揚町4)

戦功を焦った仙石秀久が守備に徹せよとの命を破り、義久軍との交戦のため出陣してしまったのです。秀久と長宗我部元親は元来敵同士ゆえに連携も上手く行かず、秀久の出陣を受けてやむなく元親も兵を進め、義久軍と戸次川(へつぎがわ・大分県大分市戸次)で激突します。

しかも激突のタイミングがあまりに無様でした。
隠れていた義久軍がやって来た秀久軍を奇襲したのです。いわゆる釣り野伏せ(つりのぶせ)と呼ばれる戦法で、三隊に分けた軍のうち、二隊を左右に隠し、中央の部隊のみが敵に正面から当たって敗走を装いながら後退。そこへ左右両側から伏兵に襲わせるものです。

あれよあれよと敗退した秀久はそのまま讃岐へ逃げ帰るというカッコ悪い幕引きとなり、報告を聞いた秀吉は激怒して、秀久に与えたばかりの所領を取り上げてしまいました。

 秀吉の九州入りと根白坂の戦い

戸次川の戦いで大敗した報せを受け、いよいよ秀吉の九州親征が決定しました。
年が明けて天正15年(1587年)3月、秀吉が九州に入りました。既に九州入りをしていた秀長の軍を含めると総勢20万もの大軍となります。秀吉は軍を2隊に分け、秀吉軍は肥後経由で西から薩摩へ向け南下、秀長軍は豊後・日向(宮崎県)経由で東から薩摩に向けて南下することに。官兵衛は秀長軍とともに日向方面へ向かいます。

豊前や筑前においては特に大きな障害はもうありません。先だって官兵衛がばら撒いた怪文書が一定の功を奏したのでしょうか、数ある大名たちは秀吉の到着とともに次々と降伏したのです。
また豊後においても義久軍は既に撤退しており、決戦の地は日向に移ることになりました。

官兵衛たち秀長軍は日向に入り、8万の兵で高城(たかじょう・宮崎県木城町)を包囲します。砦を築かれ、兵糧攻めを受ける高城を救わねばと、義久も兵を出し高城へ向かいました。
高城からわずかに南に下った根白坂(ねじろざか)は高城に向かうには必ず通らねばならぬ丘。官兵衛たちが守護していたここを、義久軍が急襲します。


▲高城(青色ピン)と根白坂(水色ピン)

官兵衛たちは奮戦してなんとか義久軍の侵入を食い止めていましたが、事態は一進一退。決着がつきません。
そこへ秀長軍からの救援が到着します。援軍来たり!と安堵したのも束の間。状況を一瞥した仙石秀久の後継の軍監・尾藤知宣(びとうとものぶ)が、秀長に対し救援は不可能だとの意見をし、秀長もそれに従ってしまいました。

よもやこれまでかと思われましたが、官兵衛は一計を案じます。義久軍に対し、6万の秀長軍の援軍が来るぞとデマを流したのです。
義久軍は動揺。そこへ秀長の家臣・藤堂高虎(とうどうたかとら)たちがわずか500の兵で突撃し、義久軍を翻弄させました。高虎の力を得た官兵衛も反撃を開始し、義久軍をやり込めます。

こうして根白坂の戦いに勝利した秀長は、薩摩へと撤退した義久を追い掛けるべく奮起しますが、尾藤知宣がまたもこれに異議を唱えました。秀長は再び彼の意見に従いましたが、根白坂の戦いでの失策もあり、このことがのちに秀吉の耳に入ると知宣は所領を没収されてしまう結果になってしまいました。

 島津義久の降伏

一方、肥後ルートで南下していた秀吉軍は、4月の半ばには熊本に到着。調略の成果もあり、特に大きな戦をせずとも肥後を通過することができました。思いのほかの早さでの大軍の進撃に、対する島津の軍勢も勝ち目なしと踏んだのか、次々と降伏していきます。

そして根白坂の戦いで敗戦し薩摩に撤退した義久もまた、さすがにもう勝てないと悟ったのでしょう。秀長に和議を申し入れました。籠城を続けていた高城も開城されます。

義久は剃髪し、泰平寺(たいへいじ)に逗留していた秀吉の元へ向かいました。義久は墨染の衣姿で、なぜか金色に塗られた磔(はりつけ)の木を携えていました。処刑されることを覚悟し、自ら磔用の木を持参したのです。わざわざ金色に塗ったのは、派手好みの秀吉の趣味に合わせたからだとか。
金の磔が気に入ったのかどうかは判りませんが、結果的に秀吉は義久を許しました。
こうして九州の平定は完了の運びとなったのです。

泰平寺
▲泰平寺(鹿児島県薩摩川内市大小路町48-37)

秀吉の九州平定により、官兵衛は九州・豊前中津へと領地替えとなります…

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画像引用:ツーリズムおおいた様(http://www.visit-oita.jp/album)、wikipedia/Sakoppi様(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%B0%E5%
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