側室を持たなかった黒田官兵衛のただひとりの妻とは?

官兵衛の結婚

 官兵衛、母を亡くす

官兵衛の生まれは姫路城と黒田城、ふたつの説があると先述しました。以降は姫路説に則って話を進めていきます。

永禄2年(1559年)、官兵衛こと万吉が14歳のとき、彼を大きな悲しみが襲いました。母・岩の死です。
よほど堪えたのでしょう、それまでの腕白坊主はなりを潜め、万吉は家に籠るようになってしまいました。
岩は歌道の才があったようで、それを受け継ぐかのように万吉もまた歌の世界へ没頭します。特に日本の最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」とそれに続く「後撰和歌集」「拾遺和歌集」の研究に打ち込みました。

これを良しとしなかったのが父の職隆です。
戦乱と下剋上の世、和歌なぞに現をぬかしている場合ではありません。いつ敵に襲われるか判らない日々ゆえに、歌道よりも武道に励んで欲しいと考えたのも当然と言えましょう。

職隆は万吉に読み書きを教えていた円満に今後を相談。ならば判ったとばかりに、円満は万吉のもとを訪ねて懇懇と諭します。万吉は素直に受け入れ、以降は武家の子としてしっかりと鍛錬に励むようになりました。
…と記しましたが、この逸話もまた実話かどうかははっきりしていません。

黒田家廟所
▲黒田家廟所(兵庫県姫路市御国野町御着1150-3)

母・岩が祀られている黒田家廟所(くろだけびょうしょ)。御着城跡にあり、左に官兵衛の祖父・重隆、 右に岩の供養塔が並んでいます。

ちょうどそのころ…
浮野合戦場址碑 永禄元年(1558年)

浮野の戦い

うきののたたかい
尾張国(現・愛知県)の半分を統治していた織田信長が織田信賢(おだのぶかた)軍と衝突し勝利した戦い。翌年、信長は尾張統一をなしとげました
写真は浮野合戦場址碑

 官兵衛、元服する

永禄4年(1561年)、万吉は16歳になりました。
職隆の主君である小寺政職が、御着城から姫路城へやってきます。主君をもてなすべく万吉は配膳を担当しましたが、その所作に常人ならぬ何かを政職が感じとったのかもしれません。政職は万吉を気に入り、近習(きんじゅ・きんじゅう・主君のそば近くに仕える役)としたいと職隆に伝えました。
職隆は喜んでそれに応え、万吉は御着城で政職のそばに仕えることになります。

また翌年には職隆とともに戦に出陣。戦の詳細は伝わっていませんが、近隣の土豪相手に初陣を勝利で飾りました。
同年、万吉は元服(成人)します。幼名の万吉を官兵衛としました。小寺官兵衛です。官兵衛は通称で、実名(諱・いみな)孝隆(よしたか)になります。よく知られている孝高の名はのちに改名したものです。

翌年の永禄7年(1564年)、官兵衛の妹が結婚することになりました。相手は播磨・備前国の戦国大名・浦上清宗(うらがみきよむね)
しかし、あろうことか室津城(兵庫県たつの市)で行われた婚礼の宴席に、西播磨で勢力を持っていた赤松氏の庶流である龍野城城主・赤松政秀(あかまつまさひで)が夜襲を仕掛け、新郎新婦ともども殺害してしまったのです。
これにて室津近辺は政秀の支配下に置かれましたが、婚礼の日に襲い殺害するという卑怯な手段に、職隆と官兵衛は赤松氏への怒りを沸々とたぎらせることになります。


▲御着城(黄色ピン)、室津城(青色ピン)、龍野城(紫色ピン)の位置

 官兵衛の結婚

永禄10年(1567年)官兵衛は22歳になり、職隆は44歳の若さで隠居、姫路城の南東に位置する国府山城(こうやまじょう/妻鹿城・めがじょう)に移りました。その際に家督を官兵衛に譲り、家老職も引き継がせます。

国府山城址のある甲山
▲国府山城址のある甲山(兵庫県姫路市飾磨区妻鹿)

おなじころ、官兵衛は正室を迎えました。相手は志方城(しかたじょう・兵庫県加古川市)城主・櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘で、名を(てる)といいました。光は当時15歳。
彼女はまず小寺政職の養女となり、そして官兵衛と結婚します。つまり政職の娘との婚姻という形がとられたのです。小寺一族の結びつきを、より強めるための政略結婚だという色合いは否めません。
それでも夫婦仲は良く、官兵衛は生涯側室を持ちませんでした。

ちなみに光は幸円(幸圓・こうえん)という名でも知られていますが、幸円は雅号(ペンネーム)です。また、司馬遼太郎氏の小説「播磨灘物語」でも光が「お悠」という名で登場しています。これも氏の創作によるものです。

志方の城山
▲志方城跡/志方の城山(兵庫県加古川市志方町岡・広尾)

この年は官兵衛の家督相続と結婚というめでたい出来事が続きますが、悲劇も再び繰り返されました。
先だって官兵衛のもうひとりの妹が嫁いだのですが、その嫁ぎ先とはかつて赤松政秀に夜襲をかけられて新郎新婦ともども殺害されたあの浦上家。襲われた清宗の弟である誠宗(なりむね・あきむね)でした。
そして、それを快く思わなかった人物がいたわけです。しかもその人物はあろうことか、身内でした。誠宗の叔父にあたる浦上宗景(うらがみむねかげ)は、浦上惣領家である誠宗らが力をつけるのを防ぐために、刺客を送って誠宗を暗殺してしまうのです。

誠宗の死で浦上惣領家は没落。すでに誠宗の子を身篭っていた官兵衛の妹は、男児・久松丸(ひさまつまる)を生みます。その後、久松丸は職隆・官兵衛に引き取られて育てられました。

ちょうどそのころ…
岐阜城 永禄10年(1567年)

稲葉山城の戦い

いなばやまじょうのたたかい
美濃国(現・岐阜県)の斎藤氏の居城である稲葉山城を、織田信長が攻め取り、岐阜城と改名。美濃を支配下におきました
写真は現在の岐阜城

結婚した官兵衛。次いで戦いへと繰り出す官兵衛の秘策とは…

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画像引用:姫路市文化財課様(http://www.city.himeji.lg.jp/s110/2212786/
_5222/_5250/_5256.html)、
姫路フィルムコミッション様(http://www.city.himeji.lg.jp/fc/)、
加古川観光協会様(http://kanbee.kako-navi.jp/spots)、
wikipedia/Jnn様(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%
E3%82%A4%E3%83%AB:Gifujyou5802.JPG)