3,000騎の敵軍に対し、わずか300騎で立ち向かう官兵衛の秘策

官兵衛、青山・土器山の戦いを制す

 黒田長政誕生

官兵衛が光と夫婦になった翌年の永禄11年(1568年)、待望の男児が誕生しました。幼名・松寿丸(しょうじゅまる)、のちの長政(ながまさ)です。
長男の誕生に沸く黒田家でしたが、平穏な日々は長くは続きません。

官兵衛の妹と浦上清宗の婚礼を襲い、新郎新婦を殺害して室津を支配した赤松政秀が動きだしたのです。
室町幕府第15代将軍となった足利義昭(あしかがよしあき)に近づく政秀。それを良しとしなかったのが、赤松氏の当主・赤松義祐(あかまつよしすけ)でした。
将軍に取り入ることで自分から播磨守護職を奪おうとしているのではないかと危ぶんだ義祐は、家臣の小寺政職に政秀の娘の誘拐を命令し、さらに備前国の浦上宗景に龍野城攻略を要請したのです。

これはまずいと感じた政秀は将軍・足利義昭に援軍を求め、義昭は織田信長に進軍を命じます。信長に派遣された援軍により優位に立った政秀は、義祐に味方した小寺政職の家臣である官兵衛をも攻略せんと行動を起こしました。

ちょうどそのころ…
三増峠の戦い古戦場付近 永禄12年(1569年)

三増峠の戦い

みませとうげのたたかい

甲斐国(現・山梨県)武田信玄が同盟を破棄して、駿河国(現・静岡県)の今川氏を制圧。相模国(現・神奈川県)の北条氏とも戦闘となり、武田軍が辛勝しました

写真は三増峠の戦い古戦場付近

 官兵衛、青山の戦いに臨む

永禄12年(1569年)、赤松政秀は龍野城から3,000騎の兵を伴って姫路へ侵攻を開始。しかし、迎え撃つ立場の赤松義祐は、配下の小寺政職とともに姫路市の山城である置塩城(おきしおじょう)に籠城してしまいます。
残された兵はわずか300騎。しかも姫路城は現在のような強固な楼閣ではなく、城を攻められてはひとたまりもありません。
ぽつねんと姫路城に残された官兵衛は、この危機的状況をどう切り抜けたのでしょうか。

決断!

官兵衛はどのように対戦した?

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正解 姫路城への道中で奇襲した

脆弱な姫路城での防衛戦はキビシイと判断した官兵衛は、攻撃は最大の防御とばかりに西へ出陣。城から4kmほどの青山にて陣を張り、奇襲をかけました。
また官兵衛の家臣であり、この戦で初陣を飾った栗山利安(くりやまとしやす・黒田二十四騎のひとり)の家伝によると、赤松政秀と結託して参戦するはずだった三木城(みきじょう・兵庫県三木市)城主別所安治(べっしょやすはる)が、侵攻の日取りを間違えて当日姿を見せなかったために政秀が動揺。その隙をついての官兵衛の奇襲が功を奏したとされています。

青山の古戦場は現在、ゴルフ場になっており(青山ゴルフクラブ)、10番ホールと18番ホールにまたがる千石池近辺で戦闘が行われたそうです。

青山古戦場跡
▲青山古戦場跡(兵庫県姫路市青山1464)

 官兵衛、土器山の戦いに苦戦する

みごと赤松政秀の軍勢を撃退した官兵衛。しかし政秀はすぐ諦めるような男ではありませんでした。またもや官兵衛を倒しに3,000騎の兵力で押し寄せてきたのです。

青山の戦いの合戦城にほど近い、夢前川(ゆめさきがわ)の対岸の土器山(かわらけやま・現在の船越山あたり)に官兵衛は陣取りました。
しかし今度は逆に政秀軍が奇襲をかけてきます。圧倒的戦力差もあって叔父の井手友氏は重傷の上死亡。家臣の母里小兵衛(もりこへえ・ぼりこへえ)など重臣も相次いで戦死しました。黒田軍は大打撃を受けますが、援軍到来のおかげで辛うじて小康状態へと盛り返します。
また、小兵衛の死は土器山の戦いの数年前であり、この戦いには参加していないともされています。

ここで守りに入っては負けると考えた官兵衛は、敢えて攻撃を強行します。母里武兵衛(もりぶへえ・ぼりぶへえ・母里小兵衛の子)は無謀とも思えるこの判断に対して「瀕死のこの状況で出撃しろとは、つまり死ねということか」と言葉を返しましたが、官兵衛は「恐らくそうなるであろう」と応えたといいます。


▲姫路城(ピンク色ピン)と青山合戦場(水色ピン)と土器山(黄緑色ピン)の位置

その夜、官兵衛たちは政秀陣へ急襲します。昼間、黒田軍に大打撃を与えたばかりで、まさか逆襲してくるとは思っていなかった政秀軍は狼狽。あれよあれよという間に官兵衛たちにこてんぱんにやられてしまいました。
とはいえ、7箇所もの大きな傷を負いながらも先陣を切って奮戦した母里武兵衛が死亡するなど、戦に勝った黒田軍も大きな痛手を負います。

母里家の戦死者は24人にものぼり、お家断絶の危機となったため、官兵衛はこれを危惧し、姫路・妻鹿(めが)の地侍で職隆に仕えていた曽我一信と母里氏の女との間の子・万助(まんすけ)に母里姓を与えて母里の籍を継がせました。

一方、敗戦した政秀ですが、浦上宗景に攻め入られまたも敗退。あげくに毒殺されてしまいました。
逆に300騎という少数で大軍を破った官兵衛の名は轟き、播磨に官兵衛ありとの名声を得たのです。

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画像引用:青山開発株式会社様(http://www.aoyamagolf.com/)