小寺家は織田信長と毛利輝元、どちらに味方すべきか?官兵衛の決断は?

官兵衛、御着評定で進言する

 官兵衛、印南野の戦いに臨む

青山の戦いで侵攻の日取りを間違えて当日姿を見せなかったとされる三木城城主・別所安治は、 元亀元年(1570年)に死亡。その家督を継いだのが嫡男の別所長治(べっしょながはる)です。

元亀4年(1573年)、長治が突如として官兵衛のもとに攻め込んできました。印南野(いなみの)と呼ばれる東播磨の地域で戦闘が行われ、この戦いには母里の姓を受け継いだ万助改め母里太兵衛(もりたへえ・友信・とものぶ)と、その弟である野村太郎兵衛(のむらたろべえ・祐勝・すけかつ)が初めて出陣します。

母里太兵衛や野村太郎兵衛は黒田家の数多き家臣の中でも特に精鋭であり、数々の戦いで先鋒を務めるなどして活躍してゆきます。のちには黒田家の精鋭家臣たち24人をまとめて黒田二十四騎(くろだにじゅうよんき)と称して呼ぶようになりました。

絹本著色黒田二十四騎画像
▲絹本著色黒田二十四騎画像(春日神社蔵)

この印南野の戦いで官兵衛は別所長治の軍勢を退けましたが、翌年、天正2年(1574年)にも長治は懲りずに、青山の戦いの際に赤松義祐が籠城した置塩城に攻め入ります。しかしここでも義祐の子である赤松則房(あかまつのりふさ)や官兵衛たちによって退けられました。

ちょうどそのころ…
足利義昭 天正元年(1573年)

室町幕府滅亡

むろまちばくふめつぼう

信長の勢力拡大に危機感を抱いた将軍・足利義昭は信長と敵対。信長は和睦を申し入れますが、義昭は拒絶します。京都入りした信長の攻撃により降伏した義昭は、京都を追放されてしまいました

写真は足利義昭像

 強国に挟まれた播磨

天正3年(1575年)、官兵衛は30歳になっていました。
足利義昭が信長によって京都を追われてからも、信長の勢いはとどまるところを知りません。信州周辺で権勢を奮った武田信玄の亡きあと、その息子である武田勝頼(たけだかつより)の軍を、信長と三河国・遠江国(現・愛知県・静岡県)徳川家康の連合軍がこてんぱんにしてしまいました。(長篠の戦い
以降、武田氏は他国外交に活路を見い出しますが、じわじわ弱体化していくこととなります。

かたや、播磨から見て西、中国地方でも毛利氏が圧倒的強さを見せ、勢力を拡大し続けていました。毛利元就(もうりもとなり)が、安芸国(現・広島県)から中国地方のほぼ全域を支配するまでになり、元就の死後も孫の毛利輝元(てるもと)がさらなる領土拡大を目論んでいたのです。

1575年の信長と輝元の勢力図
▲織田信長と毛利輝元の勢力図

官兵衛が仕える小寺家は播磨では有力者であるとはいえ、所詮播磨国の中だけの話。東には信長、西にも輝元という数多くの国を従えた大大名に挟まれた播磨は、今にも騒乱に飲みこまれようとしていました。

 官兵衛、御着評定で進言する

織田信長と毛利輝元にちょうど板挟みに位置していた小寺家が、この戦乱の世で生き抜くにはどうすればいいのでしょう。独立独歩の道を進むのもひとつの手ですが、信長や輝元に対抗するには小寺家はあまりにも非力でした。
そうなれば、信長ないし輝元のどちらかに味方して庇護を願った方が得策であると、官兵衛の主君・小寺政職は考えるようになります。
ただ、どちら側に付くのか決めかねていました。

ある日、政職は家臣たちを一堂に集め、会議の場を持ちます。信長に味方すべきか、輝元に寄り添うべきか評定するためでした。
この評定が小寺家の今後の運命を握っているとなれば、場はどうしても無難な方向性を探ろうとします。
しかし、列座した家臣たちのそんな空気を受けた官兵衛は、居並ぶ家臣たちの考えとは対極の意見を述べたのです。

決断!

官兵衛はどのような主張をした?

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正解 信長側につくことを主張した

家臣たちの意見は、輝元側につくことでおおよそ固まっていました。なぜならば小寺家はかつて毛利家と交流があったためです。何者なのかもよく分からぬ信長に味方するよりは、昔のよしみで縁のある輝元と手を結ぶほうが自然だと考えたのでしょう。

ところが官兵衛だけは全く逆でした。
信長こそが天下を統一する人物であると、既に予見していたのです。

東国での戦況と情勢を分析したところ、徳川家康は能力あれどもまだ勢力として弱い、武田信玄亡きあとの武田家も相手にする価値はない、今川家も北条家も同様に衰えている、越後(現・新潟県)上杉謙信(うえすぎけんしん)は場所が遠すぎて天下争いに不利…
ならば残るは信長しかいない…

信長は負け知らずの戦いぶりを見せていて、今や京都を制覇して将軍・足利義昭をも追いやってしまった。
かたや輝元はどうかといえば、元就の威光で輝いているようなもので、戦に関しても自ら出陣することは少なく、いずれボロが出るに相違ない…

このような主張をしたのでした。
単に旧知のよしみで手を結ぶのではなく、情報を精査分析して導かれた官兵衛の主張に、家臣たちは何の反論もできなかったといいます。

官兵衛の弁舌に耳を傾けていた政職も大いに納得し、小寺家は信長側につくことで決着しました。

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画像引用:公益社団法人 北九州市観光協会様
(http://www.kcta.or.jp/kaidou/bunka/yahatanishi/hatano/24ki.html)