信長謁見の岐阜への旅で官兵衛が考えた用心とは?

官兵衛、信長と対面する

 官兵衛、岐阜へ往く

小寺家が毛利方ではなく織田方につくことに決定したからには、それを信長に伝えることが急務。しかし電話もメールもない時代ですし、当時は郵便も存在しませんでした。まして内容が内容ですから、直接会いに行ってその旨を話す必要がありました。

そこで自ら信長に会いに行く役目を請け負った官兵衛でしたが、新幹線でひとっ飛びというわけにも当然いかず、播磨から岐阜まで徒歩で向かうことになります。

しかし、道中は必ずしも安全というわけではありません。信長に恭順する意向を申し出る旅だとはいえ、それを信長に伝えて承諾を得るまでは信長にとって播磨の小寺家は敵か味方か区別がつかないからです。途中のどこかで拿捕されて有無をも言わせず殺されたりしたら元も子もない…では、どうすれば?
官兵衛はある策を思いつきます。

決断!

官兵衛はどのような策を講じた?

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正解 お伊勢参りの旅人に変装した

街道を数名で歩いていても何の不思議もない恰好、とくれば旅人か行商人です。
官兵衛はお伊勢参りをする旅人の装束を用意させて、同行する者ともども旅装束で出発しました。
天正3年(1575年)の7月のことです。

 官兵衛、秀吉に会う

無事に岐阜に到着した官兵衛一行。
しかし、いきなり信長の城を訪問して「ちょっとお話いいですか?」と迫ることができるはずもなく、まずは信長の有力な家臣に面会し、信長に口添えしてもらおうと考えました。

そこで官兵衛が白羽の矢を立てたのが羽柴秀吉です。
秀吉は信長に仕え、数々の戦功を挙げた褒賞に近江国長浜周辺を封ぜられ、長浜城を築城しました。長浜といえば黒田氏の源流の地であり、官兵衛もまた近しく感じるところがあったのかもしれません。

長浜城
▲模擬復元された長浜城(滋賀県長浜市公園町10-10)

秀吉に面会した官兵衛は、御着評定で述べた中国地方平定論をより信長の立場に立って説明し、播磨こそが中国地方制圧の要になることを述べ立てます。
秀吉は官兵衛の情報分析術を大きく評価し、早速信長への謁見の機会を用意したのです。

 官兵衛、信長に会う

岐阜城での信長への謁見を許された官兵衛。
信長は早速「中国地方平定にはどうすればいい?」と核心を突いてきました。
官兵衛は意を得たりとばかりに、中国地方への道筋にある播磨をまず攻略することが肝要だと主張。播磨の諸派は毛利に味方すべきか織田に取り入るべきか悩んでいるだけに、一気に織田方に引き寄せれば、播磨を足がかりに中国地方へ攻め入る重要な足場となると説いたのでした。

そのためにもまずは姫路城に信長の重要家臣をひとり派遣してほしい、さすれば一気に織田方にまとまりましょう、と畳みかけて信長を納得させます。
信長もまた中国地方制覇の策を練っていたところであり、官兵衛の話は渡りに船だったのです。

信長は官兵衛の口上に大きく頷き、播磨を手中に入れねば毛利討伐はなし得ないゆえ、追って秀吉を播磨へ遣わせると約束します。
さらに信長は官兵衛に名刀圧切長谷部(へしぎりはせべ)を下賜しました。

圧切長谷部
▲圧切長谷部(画像:福岡市博物館蔵)

圧切長谷部は昭和28年(1953年)に国宝に指定された名刀。
信長の怒りを買った観内(かんない)という茶坊主を信長が手討ちにした刀で、台所の棚の下に逃げ込んだ観内を信長が棚ごと圧(お)し切ったほど斬れ味の良い刀でした。
それほどの刀を授けたほどに、信長の官兵衛への印象は良いものだったのです。

圧切長谷部は信長から官兵衛ではなく、信長から秀吉にまず与えられ、秀吉から官兵衛の子の長政に下賜されたとも言われています。
享保4年(1719年)、刀剣の鑑定や研磨を生業としていた本阿弥光忠(ほんあみこうちゅう)が、全国の名刀の行方を調べ上げて幕府に献上した「享保名物帳」にもそのように記されていますが、「ヘシ切 国重ハ小寺政職ノ使トシテ孝高公信長ニ面会ノ時中国征伐ノ献策ヲ賞シ与ヘラレタルモノニテ秀吉ヨリ長政公拝領ニハアラス(本阿弥家ノ誤伝ナリ)」との付箋書きが後世に付与されています。

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画像引用:長浜・米原・奥びわ湖観光サイト様(http://kitabiwako.jp/
photo_library/)、福岡市博物館様(http://museum.city.fukuoka.jp/
jf/2002/katana/html/katana01.html)