官兵衛の息子・長政が信長の人質となってしまう?

官兵衛、息子・長政を人質に出す

 播磨に来られない秀吉

英賀合戦で勝利を治めた官兵衛。播磨はこの勢いで信長の完全支配下になるか…と思いきや、そうもいきません。
戦闘で敵わぬなら心理作戦だとばかりに、毛利方は播磨の小大名たちを信長の噂で揺さぶったのです。
信長は怖いぞ…信長の逆鱗に触れると一家もろとも命はないぞ…まして昨日今日に信長側に味方した者たちのことなど、虫けら同然に考えているのだぞ…と。

そうやって脅されると心揺れるのも人の常。毛利側の工作に官兵衛も危機感を抱きますが、頼みの綱である信長が派遣すると約束した秀吉は一向に播磨に姿を見せません。

それもそのはず。秀吉は北陸戦線において同じ信長の家臣であった柴田勝家(しばたかついえ)のもとで活動していましたが、勝家とそりが合わず戦線を勝手に離脱。それを知った信長により謹慎となっていたのです。

柴田勝家
▲柴田勝家

これじゃ話にならんと、官兵衛は秀吉に手紙を出し、中国地方制圧の緊急性を説きました。秀吉も信長に進言し、いよいよ信長も西走開始の時を決心します。

 官兵衛、長政を人質に出す

ようやく中国地方制圧に本腰を入れることにした信長。謹慎させていた秀吉を播磨に送り込む手配を調えます。しかし、それと引き換えに信長は、非常に厳しい条件を官兵衛に提示したのです。
それは播磨の小大名たちの子息を人質として差し出せというものでした。
これはいわば、毛利方に裏切れば人質の命はないという意味でしかありません。

官兵衛は播磨の諸大名に人質の選出を訴えて廻る一方、自身の主君である小寺政職にもその旨を奏上しましたが、政職の返事は鈍いものでした。政職は子息・小寺氏職(こでらうじもと)を人質に出すことを躊躇したのです。

なぜならば政職は密かに毛利方への寝返りを考えていたからでした。寝返ってしまえば人質の命はありませんから、むざむざと氏職を信長に差し出すわけにいかぬ…ということでしょう。

やむをえず官兵衛は自身の子息である長政、当時数え年で10歳の松寿丸を人質に差し出します。
長政は秀吉の居城であった長浜城に置かれることになりました。

 秀吉、姫路城入城

天正5年(1577年)10月、官兵衛が長政を人質に出してから1か月後のこと。待ちに待った秀吉の播磨入りが実現します。
官兵衛は居城の姫路城を秀吉に明け渡し、自身は二の丸に住まうほどの歓待をしました。
ちなみに、当時の姫路城は現在の壮大なものとは異なり、居館が並ぶ程度の規模のものだったそうです。

現在の姫路城二の丸
▲現在の姫路城二の丸(兵庫県姫路市本町68)

秀吉は人たらしと言われる男。官兵衛に対して義兄弟の誓紙を交わします。
毛利攻略においては「軍師」たる官兵衛の意見を尊重したいので、お互いにわだかまりがあってはいけない。今後は兄弟として歩み、どちらかの身に万一があれば残された方が家族の面倒を見ようではないか…
そんな文面を交わしたものですから、官兵衛が有頂天にならないはずがありません。

秀吉に軍師と呼ばれた官兵衛でしたが、秀吉の参謀にはもうひとり優れた人物がいました。官兵衛とともに両兵衛(りょうべえ)と称された竹中半兵衛(たけなかはんべえ・重治・しげはる)です。

竹中半兵衛
▲竹中半兵衛(禅幢寺蔵)

こんなエピソードがあります。
官兵衛が秀吉と交わした誓紙。これを半兵衛に得意げに見せた官兵衛でしたが、半兵衛は一瞥すると、誓紙を火鉢に投げ捨てて燃やしてしまいました。
思いもよらぬ半兵衛の行為でしたが…

決断!

官兵衛は半兵衛の行動をどう思った?

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正解 半兵衛に感謝した

大切な誓紙を燃やされて驚くやら怒りが湧くやらの官兵衛でしたが、半兵衛は慌てず騒がず、
「こんな紙切れの証文があるから、約束が違うだのと秀吉公に文句を言いだしては恨みを持つようになるのだ。こんなものは無いほうが良い」
と言い捨てました。そこで冷静になった官兵衛。なるほど、誓紙に執着することは宜しくないと半兵衛の行動の真意を理解し、半兵衛に謝意を述べたと言われています。

官兵衛の次なる戦いは、すぐそこに…

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