官兵衛が佐用城攻めで繰り出した「孫子の兵法」って?

官兵衛、佐用城を攻める

 官兵衛、佐用城を攻める

官兵衛は秀吉とともに播磨国内をめぐり、各城主から人質をとることに成功。ただし、西播磨ではそうもいきませんでした。説得に次ぐ説得にもかかわらず佐用城(さようじょう・福原城)の城主・福原助就(ふくはらすけなり)や、上月城(こうづきじょう)の城主・赤松政範(あかまつまさのり)には拒絶され続けます。
西播磨のすぐ西には毛利氏の配下である備前岡山城主・宇喜多直家(うきたなおいえ)がおり、その先に毛利輝元が控えていたという地勢的要因が大きかったためでしょう。

まずここを突破せねば播磨平定は為し得ない、と秀吉は佐用城と上月城の攻略を開始しました。秀吉は上月城を、秀吉の命を受けた官兵衛は竹中半兵衛とともに佐用城を攻めるべく現地に向かいます。


▲姫路城(ピンク色ピン)と佐用城(黄色ピン)と上月城(黄緑色ピン)の位置

天正5年(1577年)11月、佐用城攻略の策を練った官兵衛は、あるアイデアを提案。中国春秋時代の思想家・孫武(そんぶ)の作とされる兵法書「孫子」から拝借した囲師必闕(いしひっけつ)の作戦で、半兵衛もこれに賛成し実行に移されました。

決断!

囲師必闕とはどんな作戦?

クリックで正解を表示
正解 逃げ場を1箇所空けておく

囲師必闕とは四方のうち三方から攻め立て、一箇所逃げ道を残しておく方法。劣勢を悟った敵軍はおのずと逃げ道へやって来るので、待ってましたとばかりにそこを一気に撃破するというカラクリなのです。

こりゃ敵わんと思ったのでしょう、官兵衛の策略どおり敵の軍勢が逃げ道の一箇所からわらわらと逃走していきます。
このまま全員逃がすのか?と思われたかもしれませんが、官兵衛は先手を打っていました。逃げ道に武士をひとり置き、大将らしき男が逃げてきたらそいつを狙って首を獲れと命じたのです。

ここで手柄を上げれば!と奮起した武士は、城主・福原助就をかろうじて仕留めました。彼の名は、薙刀の名手と言われた平塚為広(ひらつかためひろ)。大正・昭和初期の女性運動家・平塚らいてうの先祖にあたります。
しかし為広は負傷しており、助就にとどめを刺すことができません。そこで黒田二十四騎のひとりである竹森新右衛門(たけもりしんえもん)がとどめを刺し、その手柄を為広に譲ったのです。

為広はこの功績で秀吉に認められ、新右衛門もまた武士らしい振る舞いだったと秀吉から褒賞されました。

佐用城跡
▲佐用城跡(兵庫県佐用町佐用字福原)

 官兵衛、上月城を攻める

佐用城を陥落せしめた官兵衛は、そのまま秀吉の応援にと上月城へ急行します。タイミング良くか悪くか、上月城を囲む秀吉軍はさらに周囲を宇喜多直家軍に囲まれており、敵にサンドウィッチにされて劣勢に立たされていました。

官兵衛の登場に息を吹き返した秀吉軍。それでも上月城の赤松政範はさらなる兵を投入して反撃します。敵軍の猛攻にもはや官兵衛ここまでかと思われたとき、秀吉もまた追加兵を投入して再反撃開始。なんとか外周の宇喜多軍は退けたものの、城の赤松政範は籠城の構えを崩さず、戦闘は長引きました。

籠城とならば、対するは兵糧攻めだということで、水の補給を断った秀吉。この目論見は当たり、城内は混乱します。謀反を起こした兵たちが秀吉に降伏を願い出て、政範は自害する結果となったのです。

上月城本丸跡
▲上月城本丸跡(兵庫県佐用町上月)

それでも秀吉は一切の手を緩めません。降参した兵士たちはすべて斬首、女性は磔、子どもは串刺しにして国境に晒すという驚くほど残忍な仕打ちを施したのでした。

城主不在となった上月城には、毛利軍に討たれて領地を追われていた尼子氏の家臣・山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)が入り、対毛利の最前線としての働きを秀吉は期待しますが、またもや宇喜多軍が侵攻し、あっさりと城を奪われてしまいました。

上月城を奪還した宇喜多軍は天正6年(1578年)2月、城に上月景貞(こうづきかげさだ)を入れます。
しかし困ったことに、景貞の妻は官兵衛の妻・光の姉だったのです。図らずも身内が敵になってしまった官兵衛。さて、一体どうするのでしょうか…?

ちょうどそのころ…
上杉謙信 天正6年(1578年)

上杉謙信死亡

うえすぎけんしんしぼう

越後を統一し、周辺大名との戦闘に明け暮れては所領を拡大し続けたものの、次なる戦の前に急死。後継者争いの内乱になり、上杉家は衰退していきます

写真は上杉謙信像

さらに官兵衛を襲う試練。まさかの裏切りが発覚!?…

続きを読む

画像引用:佐用町商工観光課様(http://www.town.sayo.lg.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=2237)