豊前へ移った官兵衛の心境はどうだった?

官兵衛、豊前へ

 官兵衛、豊前国へ移る

九州平定の完了を受けて、秀吉は天正15年(1587年)6月に福岡まで戻り、論功行賞を行いました。この論功行賞で官兵衛はまるまる一国を与えられる…算段をしていましたが、実際に官兵衛に与えられたのは豊前国(福岡県・大分県の各一部)にある8つの郡のうちの6つ。石高でいえば12万石でした。
残りの2つの郡は毛利勝信(吉成/もうりかつのぶ・よしなり)に与えられ、まるっと一国を与えられるという話はあっさり反故になってしまったのです。

他の大名に与えられた石高や官兵衛の働きの大きさを考えると、12万石というのは少なすぎるのではないかと、官兵衛の家臣たちも不満を抱えたと言われています。しかし官兵衛は不服を申し立てることはせず、住み慣れた播磨から豊前へ移りました。
この恩賞の低さについては、官兵衛が力をつけて謀反を起こすことを秀吉が恐れたためだとも言われていますが、つい3年前に5万石になったばかりの小大名がさらに倍以上の石高になったのであるから恩賞としては充分であるとの見方もあります。

豊前に入った官兵衛はひとまず馬ヶ岳城(うまがだけじょう)へ入りました。

馬ヶ岳城跡
▲馬ヶ岳城跡(福岡県行橋市大字大谷)

 突然のバテレン追放令

秀吉は福岡滞在中に、突如としてキリスト教の布教を禁止する命令を発布しました。いわゆるバテレン追放令です。
キリスト教の布教を認めていた信長の施策をそのまま踏襲していた秀吉が突然掌を返した理由は正確には判っていませんが、いくつかの説があります。

まずは、信長が対応に苦慮した一向一揆のようにキリシタンたちが蜂起し、キリシタン大名がそれに乗じるかもしれないというおそれがあったこと。
ふたつめは、九州のキリシタン大名たちが領民をキリスト教に半ば無理に改宗させ、神社や寺院を打ち壊していたことが秀吉の耳に入ったこと。
そして、国内の戦で拉致した民間人を大名から買い取った南蛮商人が、奴隷として東南アジアなどに連れて行く事例が頻発していたこと。
これらの理由により、キリスト教の布教が禁じられたとされています。

バテレン追放令
▲バテレン追放令(松浦博物館蔵)

官兵衛もキリシタンでしたが、秀吉の命令には逆らえず、棄教を決意します。
しかし高山右近はキリスト教を捨てることができず、領地と財産すべてを捨てても信仰を守る決意をしました。しばらくは小西行長のもとで隠れ住み、定住せず諸国を転々とする生活を余儀なくされるのです。

 官兵衛、肥後に出兵する

豊前入りした官兵衛が真っ先に取り掛かったことは、検地でした。
豊前は長らく宇都宮氏(城井氏・きいし)によって治めてこられた土地。これまでの領主・宇都宮鎮房(城井鎮房/うつのみやしげふさ・きいしげふさ)は、官兵衛の豊前入りと引き換えに伊予への領地換えを命ぜられていました。しかし鎮房はそれを拒否し、秀吉に本領安堵を頼みこみます。
とはいえ秀吉が首を縦に振るはずもなく、逆に伊予の土地を召し上げてしまいました。伊予にも行けず、豊前は官兵衛の物となった以上、鎮房の行き場はどこにもありません。

見かねた毛利勝信が鎮房に手を差し伸べました。鎮房の居城である城井谷城(きいだにじょう・福岡県築上町大字寒田)を一旦明け渡させて自領へ招き寄せた上で、秀吉に再度直訴させたのです。
このように、豊前の状況は決して平穏とは言えないものでした。


▲官兵衛が入った馬ヶ岳城(ピンク色ピン)と鎮房が明け渡した城井谷城(黄色ピン)の位置

そんな按配でしたから、官兵衛は検地においても、役人を派遣して自前で厳しく正確に検地するのではなく、田畑の面積を自己申告する形にとどめ、領民の不満が出ないよう配慮します。
と同時に、勝手に新田開墾することを禁止し、反逆や殺人などをの計画を厳しく禁じました。

そこへ飛び込んできたのが肥後の一揆です。九州平定の恩賞で肥後国を受けた佐々成政は、検地をきっちり実施しようとしたため豪族の反感を買い、反旗を翻されます。それが伝播して一揆となり、収拾がつかなくなっていたのです。
佐々成政はやむを得ず秀吉に援軍を求めました。秀吉は諸大名に出兵を命じ、一揆の鎮圧に向かわせます。

官兵衛もやはり肥後行きを命じられ、留守を長政に託して、出立しました。
官兵衛不在のこのとき、きな臭かった豊前にもやはり騒乱が発生してしまうのです。

…領土を奪われ、追い詰められた宇都宮鎮房が反旗を翻す!

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画像引用:福岡県・『軍師官兵衛』福岡プロジェクト協議会様(https://fukuokakanbe.jp/)、