関ヶ原の戦いの裏で、如水は猪突猛進の攻勢で九州を股にかける

官兵衛、九州で暴れる

 如水の進撃

関ヶ原の戦いが家康の勝利で幕を閉じたころ、豊後国で大友義統の降伏を受けた如水は来た道を取って返し、杵築城の北東にある安岐城(あきじょう・大分県国東市安岐町古城)を攻めます。城はまもなく開城となり、さらに富来城(とみくじょう・大分県国東市国東町富来浦)へと兵を進めました。
このとき如水は関ヶ原の戦いの終結を知ったといいます。その後も他の城を攻め、数日のうちに豊後国を平定してしまいました。

如水は藤堂高虎を通じて家康に対し領地切り取り次第を申し入れ、豊後国だけでなく他国にも攻め入る構えを続けます。それゆえ、国東半島から自城の豊前国・中津へ戻るとそれを通過して北上し、小倉城を開城させて自領以外の豊前国もを平定。続いて西に進路を移して筑前に進攻しました。


▲中津城(赤)、安岐城(青)、富来城(緑)、小倉城(黄)

一方、家康は逃げた三成たちを追わせて捕らえます。三成・小西行長安国寺恵瓊は大坂と堺の町を引き回され、京の六条河原で処刑されました。
前後して家康は大坂城の無血開城のため、長政と福島正則に西軍の総大将であり大坂城に籠りっぱなしだった毛利輝元との交渉を命じます。

長政は吉川広家が西軍から東軍へ寝返ったことがプラスに働いたので、家康は毛利を悪いようにはしないと説き、輝元も本領安堵を条件に開城を呑みました。
こうして9月27日には家康は大坂城に入り、関ヶ原の戦いはこれにて全て終結したのです。

そしてあとは論功行賞のみと思われた矢先、家康は輝元の本領安堵を突然反古にしてしまいます。輝元が西軍の総大将としてさまざまな画策をしていたことは明白であり看過できないという理由からのものでした。
「毛利氏は改易し、領地没収の計らいを受ける。その代わり広家には周防国と長門国(ともに山口県)を与える」という旨を聞かされた広家は、びっくり仰天。そもそも毛利家内安泰を望んでいた広家にとって、本家たる輝元を切り捨てて自分だけが恩賞に預かるという真似は受け入れがたいものだったのです。

吉川広家
▲吉川広家像

広家は、輝元に謀反の意が見られれば自ら彼を討つので、自分が受け取るはずの周防国と長門国を輝元に与えてほしいとまでの嘆願をし、結果的に家康もそれを受け入れました。
それでも輝元は120万石から36万石への大幅な減封となり、以降徳川家に対して反感を抱き続けることになります。

同じく豊臣家に対しても大きくメスが入れられました。家康は秀頼と淀殿が西軍に肩入れしていたとは思っていないという旨の書状を送り、淀殿を説得。
しかし豊臣領は222万石から摂津国・河内国・和泉国(兵庫県・大阪府)65万石に減封へ。逆に家康は自身の領地を255万石から400万石へと増加し、ここに家康の天下が完成します。

 如水の戦、完結する

筑前国(福岡県)に進攻した如水でしたが、筑前は東軍へ寝返った小早川秀秋の領地であったためそのまま通過。筑後へ入ります。
そのころ毛利元就の九男であった毛利秀包(もうりひでかね)が城主である久留米城(くるめじょう・福岡県久留米市)を、肥前国(佐賀県・長崎県)鍋島直茂(なべしまなおしげ)がちょうど攻め立てていました。
直茂の子の勝茂(かつしげ)が当初は西軍に属していたため、東軍の勝利を予測した直茂が「これはいかん」と勝茂を戦線から離脱させた上で、家康への恭順を示すために自領近隣の西軍の城を順次攻撃していたのです。

そんな場面に現れた如水は、すぐさま交渉で久留米城を開城させ、直茂には柳川城(やながわじょう・福岡県柳川市)を攻めると良いと進言。如水もともに柳川城を攻め、これもまた落城させました。
こうして膨れ上がった如水の軍勢は、九州での西軍の最大勢力である島津を討たんと、肥後国の加藤清正と合流してさらに南下していきます。

鍋島直茂像
▲鍋島直茂像(鍋島報效会蔵)

しかしながら如水が肥後国の水俣まで進んだところで、島津側から使者が到着して徳川に敵対する意思がないことと、侵攻を控えてほしいことを告げられました。如水は家康の判断を仰ぐべきと考えます。
11月12日。家康と島津の和議成立による停戦命令が下り、如水はこれ以上の戦を中止。これにて如水の九州での戦は幕を閉じ、兵を引き揚げたのです。

戦いの幕は閉じられ、官兵衛はどう動く…?

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画像引用:岩国市 観光振興課様(http://kintaikyo.iwakuni-city.net/history/
history1.html)、wikipedia/上条ジョー様(http://ja.wikipedia.org/wiki/
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