秀吉との間の溝の広がりを察知した官兵衛はこう動く

官兵衛、長政に家督を譲る

 追い詰められた官兵衛

長政による宇都宮鎮房謀殺の結果、ようやく豊前に蔓延していた一揆や騒乱は収まりました。これにて一件落着と思いきや、平穏は長く続きません。

官兵衛の主君である秀吉は今や誰も逆らえない天下人であり、秀吉が白と言えば白、黒と言えば黒。どんな無茶な要求であろうとそれを押し通す力を持っていました。
翻って、これまで数々の武功を上げ、秀吉に尽くしてきた官兵衛でしたが、秀吉との間の溝の広がりをひしひしと感じざるを得ない状況に陥っていたのです。

秀吉に仕えて彼の話し相手になっていた者たちを御伽衆(おとぎしゅう)といい、僧侶や隠居した大名がその役目を勤めていました。
そのメンバーのひとりが、元・鳥取城主の山名豊国。鳥取城から追い出されたあと、秀吉への仕官を断った豊国は、持ち前の教養を活かして摂津国の多田氏(兵庫県猪名川町あたりの豪族)のもとで暮らします。その後、秀吉のもとで茶人の千利休(せんのりきゅう)らとともにお伽衆として仕えました。

千利休
▲千利休像(大阪城天守閣蔵)

ある日、秀吉は御伽衆に向かってひとつの問いを出します。それは「自分の死後に、誰が天下を取ると思う?」というものでした。
御伽衆は徳川家康や前田利家、毛利元就などの名前を挙げましたが、秀吉は首を縦に振りません。
秀吉の口から出た名前は、なんと官兵衛だったのです。わずか12万石の小大名が天下を?と皆いぶかしみますが、秀吉はこのように続けました。
「彼ほど知恵が回る男はいない。これまで自分が決断を下す時は考えに考えてから官兵衛に相談した。しかし官兵衛は話を聞き終わるとすぐに思いもつかぬ手法を述べるではないか」
さらに「自分が生きている今でさえ、官兵衛は天下をたやすく取るかも知れない。実際、小大名どころか百姓の自分が天下人になったのだから」と言ったというのです。

この話を豊国は官兵衛に伝えました。官兵衛は驚き怯えます。秀吉は自分を信じてくれていない――
そうはっきり悟ったのでした。

ただこの説話ははっきりとした証拠があるわけではありません。他にも秀吉が直接官兵衛に「次に天下を取る人物は誰か」と尋ね、官兵衛が輝元の名を出したところ「お前だ」と言われ、おののいたという説もあります。

 官兵衛、長政に家督を譲る

秀吉に警戒されたままではいけない。謀反を企てたり、秀吉の意志に逆らったりしない男であることを表明せねばならない――
そう官兵衛が考えた結果、44歳の若さでありながら隠居を決意しました。

ところが「官兵衛は警戒せねばならぬ男だが、彼の知略を使えなくなるのは惜しい」と考える秀吉は、官兵衛の隠居をなかなか認めません。仕方なく官兵衛は長政の養母の縁で秀吉の妻・ねねを頼り、口利きをしてもらいました。

天正17年(1589年)5月、ねねの口利きのおかげで秀吉は官兵衛の隠居を条件付きで認めました。その条件とは、完全なる隠居ではなく、京へ移り住んで御伽衆として仕えよとのこと。
官兵衛は承諾し、こうして家督を長政に譲ったのです。

ねね
▲ねね像(おね・北政所とも、高台寺所蔵)

長政は中津城の城主となり、従五位下・甲斐守に叙任します。
一方、官兵衛は豊前を離れて京に入り、聚楽第そばに猪熊邸という邸宅を建てて住まいました。
屋敷は千利休の屋敷の隣。そのせいもあって、官兵衛は茶道への造詣を深めていきます。
官兵衛の屋敷のあった場所は現在でも、官兵衛の出家後の号をとった如水町(にょすいちょう)と呼ばれています。

ちょうどそのころ…
片倉景綱 天正17年(1589年)

摺上原の戦い

すりあげはらのたたかい

出羽国米沢(山形県)伊達政宗(だてまさむね)軍と、会津国(福島県)の蘆名義広(あしなよしひろ)軍との合戦で政宗は大勝。南奥州の覇権を確立しました

写真は戦いで活躍した伊達政宗の近習・片倉景綱像
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