引退したはずの官兵衛だが小田原城攻めに駆り出されて…

官兵衛、小田原征伐へ

 秀吉に従わぬ北条氏政

東国に視線を移しましょう。
小牧・長久手の戦いの際に徳川家康と手を結んでいた相模(神奈川県)の北条氏政は 、先だって息子・氏直(うじなお)を家康の娘と婚姻させていました。同盟関係にあった家康が秀吉に謁見して配下に下ったゆえに、氏政も同じく素直に秀吉に謁見するものかと思われましたが、話はそうも簡単には進みません。
氏政は秀吉を大いに警戒していたのです

もうひとつ厄介事がありました。
信濃国(長野県)や上野国の沼田(ぬまた・群馬県沼田市)で勢力を伸ばしていた豪族の真田昌幸(さなだまさゆき)は、家康側についていました。
しかし家康と氏政が同盟関係になり、上野国を氏政の領地とすると決めたものですから、昌幸は反発します。領地の明け渡しを昌幸に拒否された氏政も当然面白くありません。

こうなっては武力で明け渡させようと、家康は昌幸を攻めるべく軍勢を送り込みましたが、敗退。
ところが昌幸は、その間も着々と勢力を拡げた秀吉の配下となり、結果的に秀吉・家康・昌幸は亀裂を大いに含んだ味方同士になっていたのです。

真田昌幸
▲真田昌幸像

氏政率いる北条家の全員が、秀吉に対して強硬姿勢だったというわけではありません。
氏政の弟・氏規(うじのり)は上洛し、秀吉に拝謁しています。どうしても氏政を配下に収めたい秀吉は、氏規から「昌幸と氏政と家康の沼田の領土問題が解決すれば氏政も納得するでしょう」と言われ、 三者の仲介を引き受けました。

天正17年(1589年)7月、秀吉の仲介により、昌幸が占拠していた沼田3万石のうち2万石が氏政に返還されます。残った1万石の名胡桃城(なぐるみじょう・群馬県みなかみ町)は、昌幸が「ここは先祖の墓がある土地なので」と主張したため引き続き昌幸のものに。また、昌幸が失った2万石は家康が自領から分け与えることとしました。

これにて一件落着。氏政も安心して秀吉に謁見できる…と思われたのですが、ここでどんでん返しが。
11月。突如、北条配下の沼田城主・猪俣邦憲(いのまたくにのり)が名胡桃城の家臣を買収して工作し、城を乗っ取ってしまったのです。

名胡桃城址
▲名胡桃城址(群馬県みなかみ町大字下津3437)

報告を受けた秀吉は、大名同士の私闘を禁じた惣無事令違反だと激怒。(惣無事令は九州だけでなく、2年後に関東・奥州にも出されていました)
しかも未だに上洛する気配のない氏政に愛想を尽かした秀吉は、武力で北条一族を討伐する意志を固めました。

かたや氏政はこういうこともあろうかと、城の守りを強固にし、兵糧の蓄えも着々と実行。それでも秀吉に対しては、名胡桃城乗っ取りは配下の者の勝手な独断であり北条氏の関与はないと主張し、秀吉側から人質を寄越せば心置きなく上洛すると条件を出して抗弁を続けます。
当然秀吉が首を縦に振るはずもありません。

 官兵衛、小田原城攻めに参戦

天正18年(1590年)3月。
秀吉自ら出陣した総勢22万もの大軍が、氏政の居城である小田原城(おだわらじょう)へ向かいました。その中には官兵衛の姿もありました。

まずは小田原へ抜ける箱根への道中にある支城である山中城(やまなかじょう)を落とさねばなりません。山中城も戦に備えて守りを固めていましたが、一気に押し寄せて来た秀吉軍の大軍には到底敵うはずもなく、わずか半日で落城しました。

山中城跡公園
▲山中城跡公園(静岡県三島市山中新田)

秀吉軍は韮山城(にらやまじょう・静岡県伊豆の国市)などの支城を攻める軍勢と氏家の籠る小田原城を攻める軍勢に分かれ、秀吉の本陣は早雲寺(そううんじ・神奈川県箱根町)に置かれました。

4月3日。秀吉軍は小田原城を包囲。城と城下町を全部包みこんだ惣構(総構え・そうがまえ)の小田原城は堅固で、しかも兵糧や武器弾薬も豊富に備蓄してありました。正攻法では落とせぬと踏んだ秀吉は、持久戦を余儀なくされます。

その間、氏政の支城は次々と落城。また秀吉は配下に命じ、小田原城からわずか3kmほどの距離にある山に密かに築城を始めました。
さらに追い討ちをかけるように北条氏と同盟を結んで秀吉を無視していた伊達正宗が、5月に秀吉軍に合流。
もはや北条氏に味方する大名はおらず、氏政は四面楚歌に陥ってしまったのです。

小田原城
▲小田原城(神奈川県小田原市城内6-1)

このような状況でしたから、城内では降伏すべきか徹底抗戦かが長きにわたって論議されました。この時、結論が出ずにダラダラと評議が続いたとされることから、「小田原評定」という成句が生まれています。

 官兵衛、氏政を説得する

かたや肝心の戦の方には、大した動きはありません。散発的に戦闘があるだけで、時間だけが過ぎて行きました。そんな中、小田原城内で家臣が秀吉側に内通していたことが発覚。おまけに他の支城での敗残兵の首が次々と届けられるのを見た城兵たちの士気は下がる一方でした。
強固な城は内部からじわじわと崩れていったのです。

天正18年(1590年)6月、さらに秀吉が命じて建造させていた石垣山城(いしがきやまじょう)が完成。小田原城から見えないように内密に築き、城が完成してから城の周りの樹木を伐採したために、小田原城からはまるで城が一晩のうちに突然現れたかのように見えました。これに度肝を抜かれた氏政軍はますます士気が下がります。
この城は石垣山一夜城とも呼ばれています。

石垣山一夜城
▲石垣山一夜城歴史公園(神奈川県小田原市早川字梅ヶ窪)

こうなればあとは和議にさえ持ち込めば、お互い余計な血を流さずに済みます。官兵衛は和議説得役を秀吉から承りました。
まずは城内に向かって和睦の勧めの矢文を放ちました。その上で酒2樽と魴(ほうぼう)の粕漬け10尾を氏政に陣中見舞いとして贈ります。粋な計らいをするものだと感心した氏政は、返礼に弾薬などを贈り返しました。
これは城内にはまだ山ほどの武器があるぞという余裕を見せたとも、厭戦の意味だともされています。

どちらにせよ今が好機と見た官兵衛は、単身丸腰で小田原城に入城しました。その堂々たる姿に城兵は驚き、矢を射られることも刀で斬りつけられることもなく、官兵衛は氏政と面会を果たします。その上で伊豆国(静岡県)、相模国(神奈川県)、武蔵国(東京都・埼玉県)の本領安堵と氏政の上洛の条件で、秀吉との和睦を説きました。
単身で敵城に乗り込んできた官兵衛に対し、氏直は家宝の刀剣や北条白貝(法螺貝の笛で現在は福岡市美術館所蔵)を与えました。

北条氏政
▲北条氏政像(小田原城天守閣蔵)

7月、氏直は自身の切腹と城兵の助命を引き換えに和議を受け入れます。秀吉は喜び、氏直の切腹を免じました。ただ、無罪放免とはならず高野山に追いやられます。
却って未だ城内に残る氏政も遅れて降伏しましたが、秀吉はこれを許さず、切腹を申しつけます。

結局のところ北条氏の本領安堵の約束は守られることなく、領地は家康に与えられました。
その後、秀吉は鎌倉へ入り鶴岡八幡宮(つるおかはちまんぐう・神奈川県鎌倉市)を参詣。次いで宇都宮城(うつのみやじょう・栃木県宇都宮市)で関東や奥羽の各大名に領地確定の書状(朱印状)を支給しています(宇都宮仕置)。

これにて秀吉の天下統一は完了、のはずでしたが、秀吉にはさらなる野望が…

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画像引用:三島市様(http://www.mishima-kankou.com/msg/midokoro/
10000020.html)、小田原市様(http://www.city.odawara.kanagawa.jp/
kanko/ odawaracastle/、http://www.city.odawara.kanagawa.jp/public-i/park/park-etc/ishigaki-p.html)