官兵衛は秀吉の意向により李氏朝鮮へと足を踏み入れますが…

官兵衛と長政の朝鮮出兵

 秀吉の野望

小田原城落城で天下統一を果たした秀吉でしたが、さらなる壮大な野望を抱えていました。明を含めたアジアの統一支配です。
この発想は天下統一を迎えて突如湧いたものではなく、以前から抱いていたと言います。
もとは織田信長も支那征服思想を持っていたと、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイス(Luís Fróis)が著書「日本史」で述べており、それを受け継いだのかもしれません。

秀吉が関白に就任した天正13年(1585年)には既にその意志を表明しており、琉球(沖縄県)や小琉球(フィリピン)へも服属を促すようになります。しまいには当時存在すると思われていた高山国(こうざんこく・台湾)へ使節を送ったものの、国自体が存在しなかったという逸話まであるのです。

九州平定の折に秀吉に服属した対馬(長崎県対馬市)宗義智(そうよしとし)は、李氏朝鮮に服属と明までの先導を言い渡すよう秀吉から命じられました。
産業がなく、李氏朝鮮との交易で収益を得ていた対馬は対応に苦慮。義智は秀吉の天下統一を祝う通信使の日本派遣を李氏朝鮮に依頼し、1590年(天正18年)11月に聚楽第に参上した祝賀の通信使を「服属に了承した使節」だと嘘の紹介をしてしまいます。これがまずかったのです。

16世紀末の東アジア
▲16世紀末の東アジア

これにて秀吉は李氏朝鮮が服属したと思うわけですが、ところが使節は明までの先導をあっさり拒否。李氏朝鮮は明の属国でしたので宗主国を裏切る行為などできるはずもないし、そもそも祝賀を述べに来日しただけなのですから、使節がそのような態度を取るのも当然なのです。

使節が李氏朝鮮に帰国する際に義智の家臣も一緒に海を渡り、李氏朝鮮王朝で交渉を行います。明に攻め入るので先導しろ、とまでは言わないがせめて兵の通行を許可せよ、という内容でした。
けれども使節の中に「日本が攻めてくることはありえない」と主張する者が。
義智の家臣の僧が「元寇の際に高麗が先導して我が国に攻め入ったのだから、その仕返しをされてもおかしくない」とまで言い切ったのにも関わらず、李氏朝鮮王朝はあさはかにも日本の来襲などは起こらないと判断してしまいました。

よって交渉は決裂。秀吉は明を攻める前にまず李氏朝鮮を攻めることを決定します。
天正19年(1591年)10月、朝鮮出兵の足掛かりとして、肥前国(佐賀県)名護屋城(なごやじょう)の築城を命じました。
官兵衛は縄張り(門や堀などの城郭全体の配置設計)を任され、加藤清正、小西行長らが築城にあたります。
城はわずか半年ほどで完成しました。

肥前名護屋城図屏風
▲肥前名護屋城図屏風

 文禄の役

天正20年(1592年)4月。9つの隊からなる秀吉軍の一番隊は、海を渡り李氏朝鮮のプサンに上陸しました。一番隊のトップは小西行長です。対馬の宗義智も一番隊にいました。
総大将は八番隊の宇喜多秀家で、黒田家からは長政が三番隊に加わっています。また、官兵衛もまだ21歳と若い秀家を補佐するために軍監として出陣しました。

プサンに上陸した一番隊は明までの通行許可を改めて求めましたが黙殺され、翌日、城と砦に攻め入ります。圧倒的戦力を誇る秀吉軍によりわずか数時間で城は落ち、初戦は日本側の勝利となりました。(釜山鎮(ぷさんちん)の戦い

釜山鎮殉節図
▲釜山鎮殉節図

続いて翌日はすぐ北にある東莱城(とうらいじょう・トンネ)を攻め、ここでもわずか二日で城を陥落させました。これによりプサン全域は占拠され、秀吉軍の上陸基地として二番隊以降の上陸がなされることになります。

秀吉軍が攻め入ってきたという報は、李氏朝鮮内各地へ即座に伝えられましたが、対戦準備をする間もなく一番隊が攻めよせてくるため、まともな戦いになりません。
李氏朝鮮王朝は女真族との戦いで武功を上げていた申リツ(リツは「石」偏に「立」・しんりつ・シンリプ)を派遣。しかし申リツは逃げ場のない場所にわざわざ布陣するという愚を犯し、大敗しました。(弾琴台(だんきんだい・タングムデ)の戦い

一番隊から遅れること数日後、李氏朝鮮入りをした長政率いる三番隊は、一番隊の進んだ跡を辿るのではなく、そのまま海路で北上することに。
そのころ、弾琴台の戦いで勝利した小西行長率いる一番隊に加藤清正率いる二番隊が追い付いていました。都である漢城(かんじょう・ハンソン・現在のソウル)にどちらが先に入るかを争う両隊は別ルートでそれぞれ漢城を目指し、結果的に漢江(かんこう・ハンガン・現在のソウルを流れる川)を早く渡ることが出来た行長の一番隊が5月に漢城入りを果たします。

漢江
▲漢江

ところが漢城は何もせずとも既に廃墟だったのです。
秀吉軍の襲来と敗戦の報告を受けた国王は城を捨てて逃亡。城内は放火・略奪されていました。民を守らぬ国王に民衆はがっかりし、かねてからの重税の不満もあって、却って秀吉軍のために食糧を配り応援した、とルイス・フロイスが先述の著書で綴っています。
海路で漢城を目指していた長政の三番隊も遅れて漢城に到着しました。

長政はその後、逃げた国王を追うべく黄海道(こうかいどう・ファンヘド)へ進軍。
6月、平壌(ピョンヤン)大同江(だいどうこう・テドンガン)にて大河を渡れずに足踏みしていた宗義智の軍勢が奇襲されました。長政は救援に駆け付け奮戦。矢で負傷したものの、李氏朝鮮軍は撤退し、徒歩で川を渡る彼らの姿を見て、渡河可能箇所を見出した秀吉軍は平壌城へ突撃しました。しかしまたも国王は城から逃げ出していたのです。(大同江の戦い

着々と進軍して李氏朝鮮を追い詰める秀吉軍でしたが…

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画像引用:佐賀県立名護屋城博物館様(http://www.pref.saga.lg.jp/web/
kisha/_65755/_66100.html)