周囲は敵だらけ。軍師が我が身を守るためにとった方法は…

官兵衛、出家して如水になる

 明の参戦と膠着する戦

李氏朝鮮国王宣祖(せんそ・ソンジョ)は、こりゃたまらんと明に救援を要請しました。
7月。とうとう明軍が平壌城奪還のためやって来ます。しかし行長の一番隊が撃退。これを受け、秀吉軍はこれ以上の明への方角の遠征を控え、明も講和の道を探り始めました。

数多くの武勲を挙げた行長でしたが、そのやり方の強引さは軍監として赴任していた官兵衛との衝突も生んでいます。
8月、漢城にて軍議が持たれましたが、その席で官兵衛は漢城の守備固めを提案。ところが行長は明が再度攻めてくることはないと反対し、秀吉の側近である石田三成(いしだみつなり)も行長に同意します。

一事が万事そんな調子でしたから官兵衛も嫌気が差したのでしょう、病を理由に帰国を願い出て了承された官兵衛は、京に戻り秀吉に戦況などを報告しました。

石田三成
▲石田三成像(東京大学史料編纂所蔵 )

一方、明軍の将軍付きの使節であった沈惟敬(しんいけい・チェン・ウェイチン)が行長と和平交渉にあたり、50日間の停戦に合意します。李氏朝鮮王朝はこれに反対しましたが、宗主国の意向に逆らうことはできません。
これは明の降伏の受託猶予であり、沈惟敬が皇帝に降伏の承認をとりつけるために必要な時間という意味で50日と設定されたもの。しかし、この停戦合意は明の罠だったのです。

文禄2年1月(1593年)、降伏の使者どころか大軍が行長の守る平壌城に現れました。明軍の怒涛の猛攻に行長は耐え切れず、あれよあれよと城を抜け出してしまう始末。官兵衛の危惧が的中したのです。
別の城で平壌城の戦闘状況の劣勢ぶりを聞いた大友義統(おおともよしむね・大友宗麟の子)も恐れ戦き、逃げ出します。当然、のちに報告を受けた秀吉の怒りを買うことになり、義統は豊後国の所領を取り上げられてしまいました。

平壌城から脱出した行長は、長政が守る城まで辿りつきます。黒田二十四騎のひとりである小河伝右衛門 (おごうでんえもん)が、追撃してきた明軍を追い払いました。その後も追撃はありましたが長政たちが守り抜き、辛くも勝利します。
明の勢いの強さをまざまざと知った秀吉軍は、ひとまず漢城まで撤退し、そこで防衛線を張ることにしました。官兵衛が提案して却下した案を採用せざるを得なくなっていたのです。

 官兵衛、再び李氏朝鮮へ渡る

案の定、明軍が漢城へやってきました。秀吉軍は善戦し勝利を収めます(碧蹄館(へきていかん)の戦い)。

六角亭
▲六角亭。もとは碧蹄館にあったもので、長谷川好道(はせがわよしみち)
が大正7年(1918年)、紅葉谷公園に移築(山口県岩国市横山)

しかし一進一退の戦況の末に平壌城を明け渡してしまったとの報告を聞いた秀吉は激怒。自身が海を渡って現地入りして陣頭指揮を執るとしたものの、家康らに反対され、こうなれば官兵衛の力を借りるしかないと官兵衛を再び李氏朝鮮へ送り込みます。

現地では兵糧が尽きてきており、平壌城奪還どころか漢城の維持すら危うくなってきました。
そこで秀吉軍は明との和平交渉を進ませて、明は開城(ケソン)まで、秀吉軍はプサンまで後退すること、明から日本へ使者を送ることを決定します。この決定にも李氏朝鮮は反対しましたが、前回同様相手にされません。

その明から日本への使者ですが、行長はまたもや、ただの使者を降伏の使者だと偽って秀吉に謁見させました。同じく明の皇帝にも日本が降伏したという偽の報告が伝わります。
これらの嘘の塗り重ねは、遠くないいずれ破綻することに…

さて、李氏朝鮮入りした官兵衛ですが、秀吉軍のプサンへの後退を受けて、東莱城に滞在していました。

東莱城殉節図
▲東莱城殉節図

浅井長政と碁に興じていた官兵衛。そこへ軍議のために石田三成や増田長盛(ましたながもり)たちが訪ねてきました。
しかし官兵衛が彼らを待たせたまま碁をやめなかったため、しびれを切らした三成たちは怒って帰ってしまいます。

そのこと自体は秀吉の耳に入ったものの、秀吉は「碁を打つのをほどほどにしろと命じなかった自分の責任だ」と官兵衛を庇う発言をし、お咎めなしで済みました。
ところが三成が秀吉に告げ口したと知った官兵衛は、大慌てで弁明せねばならぬと、独断で李氏朝鮮から帰国。秀吉に面会を求めるという行動に出てしまうのです。

勝手に戦線を離脱してつまらない弁解のために戻って来た官兵衛に対しさすがに秀吉は怒り、蟄居を命じました。
思わぬ展開に驚愕した官兵衛は剃髪して出家し、名を如水軒円清(じょすいけんえんせい)と改めるのですが…

一時休戦となった日本と明。しかし暗雲は立ち込めて…

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画像引用:一般社団法人山口県観光連盟様(https://www.oidemase.or.jp/
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