今も愛される黒田節の誕生秘話…

黒田節誕生と秀次事件

 母里太兵衛と黒田節

偽りだらけの休戦により、秀吉軍はわずかな兵をプサンに残して引き揚げました。
出家した官兵衛、つまり如水もまた周囲のとりなしで秀吉から蟄居を解かれ、許されます。

その後、秀吉は隠居後の住まいとして建造していた伏見城(ふしみじょう・京都市伏見区)に移りました。
ある日、長政は伏見に滞在していた秀吉の家臣・福島正則(ふくしままさのり)のもとに、母里太兵衛を使いに遣ります。

福島正則
▲福島正則像

正則の屋敷ではちょうど宴会のさなか。正則は太兵衛に酒を飲めと強要しました。黒田家内で「フカ」と呼ばれていたほどの大酒飲みで通っていた太兵衛でしたが、主人の使いで参上した以上飲むわけにはいきません。
それでもなお正則が「酒を飲み干せば好きな褒美をとらせよう」と強く勧めたため、太兵衛は挑戦を受けて大盃になみなみと注がれた酒を飲み干します。

そして褒美として秀吉から下賜された大きな槍を所望しました。その槍とは正三位の位を賜ったという伝承を持つ由緒あるもので、全長320cmもの日本号(にほんごう)のこと。
酔っていた正則も勢いで了承し、太兵衛は日本号を悠々と持ち帰ったのでした。

翌日、正気になった正則はえらい真似をしてしまったと、太兵衛に日本号の返却を求めましたが、太兵衛は「武士に二言は無いはず」と拒否。これこそ太兵衛が「呑取り日本号」という渾名を持つ所以なのです。

このエピソードに詞を付けて雅楽の演目である越天楽(えてんらく)に載せたものが、越天楽今様の白眉である黒田節(くろだぶし)です。

酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)のこの槍を
  呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士

福岡藩士によって歌い継がれたこの歌は、昭和17年(1942年)に芸者歌手の赤坂小梅(あかさかこうめ)によって当初「黒田武士」の名でレコード化され、時流に乗ってヒット。黒田節は今や全国的に知られる福岡を代表する民謡となっています。

 秀吉の暴走

小牧・長久手の戦いで家康軍に惨敗したのちに、四国平定や小田原征伐の山中城攻撃で武功を残した羽柴秀次は、のちに豊臣の本姓を秀吉から下賜されました。しまいには秀吉の養子となり、関白の座を秀吉から譲り受けます。

もちろん秀吉は全権を譲ったわけではなく、秀次の力をも掌握する絶大な権力を持っていたのですが、ここにきて厄介がまた発生してしまうのです。
秀吉の側室・茶々(ちゃちゃ・淀殿)が男子・拾丸(ひろいまる・のちの秀頼)を産んだのでした。

どうせ権限を譲るなら養子の秀次ではなく実子の拾丸に…
そう考えるようになった秀吉はまたも暴走の色を強めていきます。

傳 淀殿畫像
▲傳 淀殿畫像(奈良県立美術館蔵)

そのひとつが先述の伏見城築城です。秀吉と拾丸が聚楽第から伏見城に移ると、当然他の大名たちも後を追うように伏見に屋敷を構えます。寂れていく聚楽第に残された秀次は危機感を覚えたことでしょう。

文禄4年(1595年)、さらに秀次に試練が訪れます。石田三成や増田長盛たちが秀次のもとを訪ね、秀吉に対して謀反を企てていると言いたてました。朝廷に多額の献金をした、もしくは諸大名に対して忠誠を誓わせたなどの疑いはありましたが、謀反だなんてとんでもないと秀次は弁明します。

書面の弁明では意味をなさないとして、秀吉は伏見城へ直接来るように命じ、秀次もそれに従って城へ出向きました。ところが面会は叶わず。おまけに秀吉の使者から突き付けられたのは「高野山への追放」という厳しい処分でした。

官位も剥奪され、言われるがまま高野山に赴いた秀次。このまま隠遁生活かと思いきや、秀吉は追い討ちをかけてきます。なんと切腹せよと言うのです。

豊臣秀次
▲豊臣秀次像(瑞泉寺蔵)

結果的に秀次の切腹のほか妻子39人が処刑され、聚楽第は破壊されました。
親族であるにも拘らずこのような暴虐な施策に出たことは、豊臣政権の末期感を示す一大事でしたが、最後の一暴走はまだこれから。

文禄5年(1596年)、明からの使者が秀吉のもとに面会にやって来ました。小西行長の報告によれば明は日本に降伏したとのことゆえ、秀吉は使者を大いに歓待しましたが、そこで使者が発した言葉が秀吉を怒らせます。
使者は日本に李氏朝鮮内に残る秀吉軍の完全撤退を求めてきたのです。降伏どころか話が全く違うではないかと秀吉が感じるも当然のこと。

それもこれも小西行長と明の使者が塗り固めた嘘の産物でした。秀吉は李氏朝鮮王子を人質に寄越せとも命じていましたが、李氏朝鮮は王子ではなく使者を寄越しただけだったため、休戦協定はあれよあれよの間にボロを出し、秀吉は再度の出兵を決断するのです。

ちょうどそのころ…
伏見桃山城模擬大天守、小天守 文禄5年(1596年)

慶長伏見地震

けいちょうふしみじしん

京で起きた大地震で千人以上の死者が出て、完成したばかりの伏見城も倒壊したため、秀吉は明の使者に大阪城で会うことになりました

写真は現在の伏見桃山城模擬大天守、小天守

いよいよ二度目の李氏朝鮮出兵。どうなる官兵衛…

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