慶長の役で進軍する秀吉軍にもたらされた報せは秀吉の死だった…

慶長の役と秀吉の死

 慶長の役

慶長2年(1597年)2月。
全羅道を残さず成敗し、忠清道や周辺も抑え込めとの秀吉の命令により、西国を中心に動員された14万もの兵が再度海を渡りました。
総大将は小早川秀秋(こばやかわひであき)。秀吉の正室・ねねの縁者で、小早川隆景に養子縁組した人物です。とはいえ秀秋はまだ若く、如水が軍監として補佐しました。

如水だけでなく長政も三番隊として海を渡りましたが、如水の次男・熊之助は16歳という若さゆえにこれに加わることができません。
自分も参戦して活躍したい…思い余った熊之助は家臣の子たちと密かに中津城を抜け出し、李氏朝鮮へ渡る船に乗り込みます。しかし不運なことに、嵐により玄界灘で船は沈没。生涯をあえなく閉じるはめになってしまいました。

朝鮮戦役海戦図屏風
▲朝鮮戦役海戦図屏風

そのころ毛利輝元を支えてきた小早川隆景もまた急逝しました。かつて隆景は如水に対して「頭が良く物事を即決してしまうゆえに後悔する結果になることも多いだろう。逆に私は頭が良くないので熟考を重ねて判断する。だから後悔をあまりすることがない」と語り、彼の訃報を聞いた如水は「これで日本に賢人はいなくなった」とその死を悲しんだそうです。

再びプサンに上陸した秀吉軍は、漆川梁海戦(しっせんりょうかいせん)で劇的勝利を治めます。そのまま全羅道に向かって兵を進め、南原城の戦い(なんげんじょうのたたかい)、黄石山城の戦いで勝利し、全羅道から続いて忠清道へと進軍しました。

秀吉軍の到来の報告を受けて待機していた明軍も兵を進め、稷山の戦い(しょくさんのたたかい)において衝突。数で勝る長政たちの軍勢が優位に運び、さらに援軍の到着を受けて明軍は撤退をはじめます。
こんな状況でしたから首都・漢城の民兵たちも守備どころか逃げ出す始末でした。

今回秀吉軍は無理に北上するのではなく、南部の守りを固める作戦に出ます。全羅道南部に残る李氏朝鮮の水軍・李舜臣(りしゅんしん・イスンシン)の部隊との水上戦で秀吉軍は苦戦を強いられますが、それでも圧倒的兵力差で近隣の制海権を取得しました。

板屋船
▲李氏朝鮮水軍の板屋船

 秀吉の死

李氏朝鮮の南部を制圧した秀吉軍は、プサンなどに城を築き始めました。仮のものではなく本格的な城であり、自領として支配するためのものです。
その城のひとつである蔚山城(うるさんじょう・いさんじょう)はプサンの北にあり、加藤清正が築城させたもの。明はここを攻めて清正を落とせば戦況を有利にできると考え、急襲してきました。

明軍による急襲時、清正は城にいませんでしたが、その報せを耳にして城に戻り、籠城して徹底抗戦します。冬の寒さに加えて兵糧も少なく、清正の軍勢にも多くの犠牲者が出ますが、長政たちの援軍もあり防衛に成功。敗走する明軍を追撃し、勝利を収めました。(第一次蔚山城の戦い

また、長政が清正救援のため梁山城(やんさんじょう)を留守にした際、如水が城を守り、攻め込んできた明軍をわずかな城兵で返り討ちにしています。

蔚山籠城図屏風
▲蔚山籠城図屏風像(福岡市立博物館蔵)

ところが、この戦において長政や蜂須賀家政(はちすかいえまさ・蜂須賀正勝の子)が蔚山城救援を怠ったという報告が秀吉の耳に入ってしまいました。もちろんこれは事実とは真逆の報告でしたが、報告を信じた秀吉は怒って家政を帰国させ、その上で謹慎の処分を下してしまうのです。長政も家政ほどではありませんでしたが、秀吉の不興を買う羽目に。
この裁定がのちのちの大戦に大きな影響を与えることになります。

慶長3年(1598年)4月。
一連の作戦の成功を受けて、秀吉は李氏朝鮮に展開する軍勢のうち、おおよそ半分を帰国させました。如水も帰国組であり、戦果を秀吉に報告します。
まずまずの戦果に満足する秀吉でしたが、その頃には床に臥せがちになっていました。病からくるものだったのか、自身の死期が近づいていることを悟ったのでしょう、家康たちに秀頼(拾丸)の後見を頼んでからまもなく、8月には死去してしまいました。

秀吉の死に対し、如水はこのようなときにこそ大きな戦が起きると予測。この予感は見事的中することとなります。

かたや李氏朝鮮内の秀吉軍に秀吉の死は知らされず、戦闘は続いていました。再度、蔚山城は攻め入られますが守備に成功し(第二次蔚山城の戦い)、順天城の戦い(じゅんてんじょうのたたかい)でも勝利しています。

朝鮮出兵図屏風
▲第二次蔚山城の戦いを描いた朝鮮出兵図屏風(鍋島報效会蔵)

秀吉の死後、秀頼が後継となりますが、政治の実務は五大老と呼ばれた重臣たちによって行われます。とはいえ、トップ不在の政治は有力大名間の軋轢を生みはじめ、対外戦争なぞに興じている場合ではなくなってきました。

10月、五大老は李氏朝鮮からの撤退を決定。帰国命令を受けた小西行長たちは翌月、撤退をはじめます。それを機と見た明軍に急襲を受けつつも(露梁海戦(ろりょうかいせん))、なんとか脱出に成功。帰国の途に着きました。

これにて7年に及んだ明との戦争は終結。李氏朝鮮に築いた城も領土も手放した日本は、結果的に領土を増やすことができなかったわけです。
明もまた十万の将兵と百万の兵糧を失ったとされ、これがのちの明の滅亡への大きな第一歩となってしまいます。

ようやく終わった対外戦争ですが、今度は国内に大きなうねりが…

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画像引用:Chinese Siege Warfare: Mechanical Artillery and Siege Weapons of Antiquity