秀吉の死により家康と光秀の対立が勢いを増す中、如水はどう動く?

家康の台頭と長政の再婚

 三成襲撃事件

秀吉の死後。その権力は、関東に莫大な所領を抱え、伏見城で采配を揮う徳川家康と、加賀国(石川県)で権勢を誇る前田利家、そして大阪城で事務方を抑える石田三成の三者で争われる風向きとなりました。

年が改まり慶長4年(1599年)、不穏な情勢は早くも火種に引火してしまいます。
秀吉は生前に大名間の婚姻を禁じていましたが、家康は密かに六男を伊達政宗の長女と婚約させており、福島正則蜂須賀家正とも婚姻を画策。それが三成にバレてしまいました。

秀吉の遺志に背いたと伊達政宗・福島正則・蜂須賀家正は三成に詰問されますが、三者が知らぬ存ぜぬを決め込んだため、ますます三成の不興を買います。
三成が家康を排除するために急襲するかもしれない。そう感じた如水は家康の身の安全を確保するために、長政に命じて家康の住居の警備にあたらせました。

如水は加賀の前田利家に対しても、家康との和睦を勧めます。確かに利家には大きな権力がありましたが、高齢で余命いくばくとも知れぬ身でした。家康との対立は今は避けるべきだと考えた利家は家康と一旦和議を結びましたが、わずか1カ月後に逝去してしまいます。

前田利家
▲前田利家像

利家の死を受け、家康派と三成派はますます対立。特に第一次蔚山城の戦いにおいて戦功を虚偽報告された長政は、かねてからの如水に対しての冷遇もあって三成に反発しました。

家康派のうち長政をはじめとした福島正則や加藤清正ら七将(しちしょう)たちは、三成を襲う作戦を立てます。しかしその策が三成に漏れて、三成は伏見城に避難。七将らは伏見城を囲みますが、家康が双方の仲介をして三成に隠居を説き、三成もそれを受け入れて佐和山城(さわやまじょう・滋賀県彦根市)に隠居しました。
またこの後、第一次蔚山城の戦いにおける長政や蜂須賀家政たちの処分の撤回と名誉回復の処置がとられました。

 長政の離縁と再婚

三成の失脚により時代は家康の天下へ移ろうかのように見えて、そう簡単には事は進みません。大人しく隠居しているかのように振舞う三成でしたが、その裏では三成派の大名たちと密談して家康打倒の策を練っていたのです。

慶長5年(1600年)。三成と懇意だった会津国(福島県)上杉景勝(うえすぎかげかつ)が、家康との対立姿勢を露わにします。仮病を使って上洛を拒みつつ、城を堅固にするための補修を進めたことから、謀叛の兆候ありとの噂が跋扈しました。
これを受け、家康は景勝の討伐を決定するのです。

上杉景勝
▲上杉景勝像(上杉神社蔵)

また有力大名の子息との婚姻により政権基盤の強化を図っていた家康は、その狙いを長政にも向けました。
家臣・保科正直(ほしなまさなお)の娘・栄姫(えいひめ)を自らの養女とし、長政に嫁がせます。
これにより長政は妻の糸と離縁しており、不条理な理由で離縁させられたと糸の実家の蜂須賀家は怒り心頭。これにより黒田家と蜂須賀家は以後150年に渡って仲違いをするハメになってしまいました。

上杉討伐のため会津に向かう家康。そこへ…

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